サミュエル・バトラ「エレホン」


ユートピア文学の二冊目(山本政喜訳、岩波文庫)。岩波文庫にはけっこうユートピアものが入っているので順次読んでいくつもり。

モアの本が理想郷を描いているのに対し、バトラーの描くエレホンはアデュナタ(さかさまの世界)である。「さかさま」というより「ねじれの位置」といったほうがいいかもしれない。現実の世界と地続きのようで隔絶している、この歯車の狂ったような妙にちぐはぐな世界を舞台に、バトラーは犯罪と病気、宗教、貨幣制度、死後の世界と未生児の世界、学問と大学、機械文明、動植物の権利などについて、本気なのか冗談なのかよくわからない議論を展開している。

いずれの議論もいまとなってはどうでもいいのだが、エレホン国のなんともいえない気持わるさはカフカの一連の小説の雰囲気につながるものをもっている。アレゴリーはその意味を失うとともにシンボルに転化する。カフカの小説はすべて、意味を失ったアレゴリーがなおも詩的な面で価値をたもっているところに成立している。バトラーの小説にしても同じこと。もしこの小説が今後も読まれるとすれば、この線からのアプローチがいちばん妥当なものだと思われる。

ところで、バトラーはこの小説で当時のイギリス社会を諷刺しているらしいけれども、作者の意図を離れてこのエレホン国にいちばん近い国はどこかといえば、たぶん中国がそれにあたるのではないだろうか。いわゆるオリエンタリズムとは無縁のところで、当時のヨーロッパにとって絶対的な異郷としてイメージされた、幻想の中国のひとつのヴァリエーション。

いまどき日本でこの小説を読もうとするのは、芥川竜之介の熱心な読者くらいなものかもしれない。彼の「河童」に「エレホン」が影響をあたえたというのは文学史的によく知られたことだから。とはいっても、一個の作品としてみれば両者は水と油以上にちがっている。比較文学なんていうのがいかにでたらめなものであるか、このことからもよくわかる。