平田篤胤「仙境異聞・勝五郎再生記聞」


神道イデオローグとして名高い(?)平田篤胤による聞き書き岩波文庫、2000年)。題名にある「仙境」とは「山人の世界」のことである。「仙」という字を分解すると「山人」となるように、古来山人は仙人と混同されてきた。平田篤胤はさらに進んで、これを「神仙」と解し、山人すなわち山の神という図式をたてる。山の神は幽界(目に見えない世界)の支配者であり、同時に顕界(目に見える世界)を守護する役目もはたしている。

この幽界と顕界との関係がおもしろい。ひとくちに両世界といってもその関係にはいろいろあって、ヴァーティカルホリゾンタル、シンメトリックなどが考えられるが、平田篤胤によるこの両世界は幽界が顕界を包みこむような構造になっている。要するに世界は二重構造なので、卵にたとえれば卵黄が顕界、卵白が幽界ということになるだろう。

この地続きのようでいてしかも隔絶している両世界を往還するのが主人公の少年寅吉である。平田篤胤はこの少年から仙界の消息を聞きだしてこと細かに書き留める。少年の話はひどく現実的かと思えば、また夢のように空想的でもある。平田篤胤にとっての仙界は、おそらく新井白石にとっての西洋と同じような位相にある。どちらもミディアムのような人物の目を通して垣間見られた異界の消息だから。

その上でこの本の独自性をいえば、やはり語られる世界が二重になっていることだろう。虚と実と、真と偽との反転はいたるところにある。この往還運動のきわまるところ、世界は茫漠とした広がりのなかに溶けこんでしまう。そこでは彼我のけじめすらすでに明確ではなく、山人と天狗とは「相反するものの一致」ともいうべき同一性の相貌を帯びるにいたる。……

……と、かなりわけのわからない感想になってしまったが、じつはそんなに肩の凝る本ではなくて、興味本位に読んでもおもしろいものだと思う。寅吉の語る話のなかには架空旅行記としても秀逸なエピソードがいっぱいある。また平田篤胤の塾(?)は江戸後期の知識人のサークルとしても機能していたようで、そういった方面にもちょっと関心をもった。彼の主著「霊の真柱」は同じく岩波文庫に入っているから、機会があれば読んでみたい。


(追記、12/25)
「仙境異聞」は1822年に書かれたらしいが、この本の上・三に寅吉の語る話としてこういうのが載っている。

「馬頭の骸骨の目に豆をうえ、其の豆をとりて焼けば、人々馬の顔に見ゆる」
「寒中の蚯蚓を干して、灯火にともせば、人の顔長く見ゆる」
「産の穢血を小撚によりて紙燭として、馬の草鞋を紙に包み、骸骨に見ゆる」

これらを読んでいて思い出すのは十六世紀イタリアのバッティスタ・デラ・ポルタの「自然魔術」にある有名な(?)一節。

「新しく子をはらんだ雌ウマの有毒物質(すなわち排泄物)を取り出し、それを新しいランプで燃やすと、人間の頭がウマの頭のようにみえる。このことは、私がためしたわけではないから、真実かどうかわからないが、私は真実だと思う」

東西で似たような話があるのは珍しくないが、これにもなにか元ネタがあるのだろうか? いずれにしてもランプの妖異の話として興味ぶかい。