柳田国男「遠野物語・山の人生」


岩波文庫に何冊かある柳田本の一冊。フランス文学者の桑原武夫が解説を書いている。

さて、ここに収められた「遠野物語」。有名な本だが、じっさいに読んだ人はどれだけいるだろうか。私も今回はじめて読んだくちだが、これはすばらしい作品だと思った。

この本には百いくつもの物語が集められている。そして、そのうちのどれひとつとってみても柳田国男が作ったものではない。柳田はこれらの物語の作者ではなく、また語り手ですらない。語り手は佐々木鏡石という人だ。柳田は佐々木の語った物語を「一字一句をも加減せず感じたるまま」書き写しただけらしい。

ところで、この「一字一句をも加減せず感じたるまま」とはどういうことだろうか。それはもちろん佐々木の語ったままを写しとったということではない。だいいち、佐々木がこんな文語体でしゃべるわけがない。柳田はいわば佐々木の語る話(原文)を自分なりに翻訳したのだ。この本における柳田の功績は、おそらくは翻訳者としてのそれに還元されるだろう。

それにしても、この柳田による翻訳のすばらしさはどうだろう。翻訳書のよしあしをいうのに、もしその翻訳がはじめから日本語で書かれていたものだとしたらどうか、というのがある。「遠野物語」の場合はそれどころではない。もし日本に遠野という国が存在せず、ここに集められた物語がすべて柳田の創作であって、実話はひとつもなかったとしても、これらの物語はいささかもその価値を失わないだろう。つまりこれらの物語はフィクション、ノンフィクションの垣根をあっさり越えて、たんに「物語」としてりっぱに成り立っている。

フィクションの場合、それが実話から構成されたものであることはおそらくマイナスの評価につながる。ノンフィクションの場合はその逆で、それが実話でなかったら価値の大半を失ってしまうだろう。ところがこの「遠野物語」にかぎっていえば、そのいずれの場合もあてはまらない。ここには物語(story)と歴史(history)とが未分化であった状態がそのまま現前している。私がこの本を読んでいちばんおもしろく思ったのはこのことだ。

併収の「山の人生」は「遠野物語」の「直接的展開」(桑原武夫)とのことだが、こっちのほうはもう完全に民俗学の本、という感じになっている。おそらく柳田国男の著作の大部分はこの「山の人生」の系列に属するものだろう。読者はこの論文を読むことで、逆に「遠野物語」の特異性をはっきりと感じることができる。この物語集はその「古風にして新鮮な文体」によって、時空を超えたふしぎな燐光を放っている。

どうもいささかコーフン気味で、なにを書いているのかわからなくなってきた。つづきはまた後日。


(付記、11/8)
遠野物語」を読んでいて、「あわせて読みたい」と思った本を下に列挙しておく。

平田篤胤「仙境異聞」
高橋貞樹被差別部落一千年史」
小栗虫太郎「白蟻」
南方熊楠柳田国男 往復書簡集」
葛洪「抱朴子」