高山宏「目の中の劇場」

sbiaco2008-11-02



「アリス狩り」の二冊目(1985年、青土社)。この本になると、もうアリスはほとんど姿をあらわさなくなる。かわって前面に出てくるのが「ピクチャレスク美学」なるもの。これは要するに世界を絵のように見、絵を世界のように見る視線のことらしい。これがいかにして17世紀ヨーロッパ(ことに英国)に発生したか、そしていかにこんにちまでわれわれの感性の根幹になっているか、ということをとうとうと論じたのがこの400ページからなる大著。

思いきり簡略化していえば、遠近法の普及とともに、もとは神あるいはその代理人としての王のものであった「唯一の視座」を人間が簒奪して、その座から世界を一幅の絵のように、つまり額縁で切り取られた一個の作品として眺める観点を手に入れた、ということになる。それは世界を可視のものとしてみずからのうちへと囲いこむ「所有」の形態だった。人は見ることによって所有し、さらに知るのだ(voir→avoir→savoir)。こうして目の支配が決定的となったのがすなわち「近代」であって、その「近代」が繰り広げる「目の欲望」がどんな極端にまでおもむいたかをつぶさに語るのがこの本である。

だから、この本のフレームワークである理論はおまけのようなもので、要するに一個の目玉と化した「近代」がむさぼり眺める種々の偏奇なものを次から次へと列挙するのが著者の目的だったと思われる。それらはじっさい瞠目すべきものだ。さいわいにして、いまではインターネットがあるから、この本に集められた珍奇な画像もすぐに検索してカラーで見ることができる。ネット時代に生きるありがたさを感じるのはこういうときだ。

そう、高山氏が膨大な資料を駆使して作った書物としてのヴンダーカマーも、いまではパソコンという箱のなかにそっくり入ってしまっている。それがいかに驚くべきことであるか、この本を読む事で逆に認識できるだろう。ピクチャレスク美学が世界を切り取るのに使った「額縁」ないしは「窓」というものも、ウィンドウズという形態でちゃんと受け継がれている。

そう考えてくると、この本の価値はやはり理論にあるのかな、という気がされてくる。いや、理論という言い方は適切ではないだろう。理論ではなく高山宏の目こそがこの本の価値をなしている。高山氏の目、それは一種のパノプティコンあるいはパノラマである。具体的にいえば資料の博捜のための「場」だ。高山氏は自分の目を一個の磁場として正当化するために次々に本を書いているのではないか、とさえ思われてくる。

あと、この本には続篇として「アリス狩り3」がある。これも近いうちに読んでみたい。