「駆使」の意味


鈴木信太郎訳「悪の華」に、「大自然がお前(ボードレールの恋人)を駆使して天才一人を捏ね上げる時」という詩句がある。こういう場合の「駆使」をどう解すべきか。そのあとに「お前を道具に利用して」といいかえてあるから、そういうふうに解すべきなのだろうけれども。

「駆使」はおおざっぱにいって、その目的語が生物か無生物かで意味が違ってくる。人や動物を「駆使」するとは、文字どおり「追いたてて使う」という意味。無生物を「駆使」するとは、「思いのままに(自在に)使いこなす」という意味。

それぞれの場合の例文をあげれば、前者は「部下を駆使して企画をまとめる」「犬を駆使して橇を走らせる」など。後者は「資料を駆使して論文を書く」「パソコンを駆使して情報を集める」など。

もともとは前者が主流で、後者はその派生的な用法だった。それがいまでは逆転して、後者の用法がもっぱら使われている。

ではいったいいつごろその逆転が行われたか。

ネットで少し調べてみたが、そんなことに関心をもっている人は少ないらしく、満足な答をみつけることはできなかった。

それはともかくとして、「(生物を)追いたてて使う」から「(無生物を)思いのままに使いこなす」まではかなりの飛躍があるように思われる。このギャップを埋めてくれるような例はないものか。

そう思って諸橋漢和で「駆使」を調べてみると、次のような例文が出ていた。

「香上疏曰、臣香年在方剛、適可駆使」(後漢書、黄香伝)
「駕御英雄、駆使群臣」(呉志、張昭伝)
「受母銭帛多、不堪母駆使」(古詩、為焦仲卿妻作)

いずれも「こき使う」というような意味で使われているようだが、ここで注目すべきはふたつめの例文だろう。というのも、これは「英雄を思いのままに御し、群臣を追いたてて使う」という意味で、「駕御」には「駆使」の現在の用法がconnoteされていると思われるからだ。おそらくこういった対比的な使用例が「駆使」を現在の用法へと転換させたのではないか。

それにしても「呉志」の時代は古く、日本で「駆使」が現在の意味で使われるようになったのはようやく戦後のことだ(おそらく)。鈴木信太郎の使用例はその過渡期にある「駆使」の一例として貴重なものなのかもしれない。