加地伸行編「易の世界」


しばらく前からちびちびと読んでいたのをようやく読了(中公文庫、1994年)。題名のとおり、易への親切な入門書になっている。易といえばもちろん占いだから、理論と実践とが含まれるわけだが、この本はその両者への配慮が行き届いていて、私のような中途半端な人間にもよくわかる。舵取り役を引き受けた編者の手腕を高く評価したい。

易は五経のうちのひとつで、儒家では大切に扱われているようだが、どうも儒教よりも老荘のほうが親和性は高いみたいだ。じっさい、王弼はもっぱら老荘思想の立場から易の註釈を書いた。易の繋辞伝上には「形而上者、謂之道、形而下者、謂之器」という文がある。これなんかは「老子」の一節といっても通用するのではないか。

王弼という人はヨーロッパでいえばたぶんプロチノスみたいな人だったのではないかと思う。プロチノスの教えがネオ・プラトニズムとして広まったとすれば、王弼の教えは道教として広まったとはいえないだろうか。ネオ・プラトニズムも新プラトン主義なんて訳せばなにか高尚なもののような気がするが、じっさいは俗化したプラトン教みたいなものだったように思う。

そういう類推でいえば、宋代に出た朱熹はまさしくトマス・アクィナスに相当する。彼は易を介することで老荘思想儒学に取り入れた。というよりも両者を高い次元において集大成したといったほうがいいかもしれない。彼の体系においては易はそのバックボーンとして機能しているのだ。朱子学は日本では徳川幕府の御用学問だったというのであまりいい印象をもっていなかったが、この本で朱熹の業績の一端にふれて、朱子学に対する見方がちょっと変った(もちろんいい方へ)。

易経は西洋では「変化の書」と訳されているようだ。「易」の字が変化をあらわすというのは、易とはもともとトカゲやヤモリをあらわす象形文字で、こういった動物は環境次第で体の色を変えるから、易が変化の意味になったのだという。しかしそれとはべつに、易の字の上の部分は日を、下の部分は月をあらわす、という説もあったらしい。日月すなわち陰陽すなわち乾坤である。これはいまでは俗説として斥けられているらしいが、そういって捨ててしまうにはおしいような魅力のある説だ。