英文解釈について


ドイツ語でさんざん苦労しているので、そのぶん英語の力が相対的にアップしたのではないか、と思って、かつて放り出したコールリッジの「文学評伝」(Biographia Literaria)をもう一度手にとってみた。しかし、期待したほどの変化はないようだ。あいかわらず五里霧中といった印象。しかし、このコールリッジの英文は、大学の英文科に通っている学生でも難儀するのではないか。私のような中途半端な人間が手を出すようなものではないのかもしれない。

といっても、ぱらぱらとページをめくっていると、おもしろそうな話題は随所にみつかる。ちょっと驚いたのは、コールリッジがヤーコプ・ベーメをけっこう高く評価していることだ。そんな記述があるとは思わなかっただけに嬉しかったが、これもむつかしくてよくわからない。そのちょっと先に、フィヒテに関する記述がある。先日フィヒテの本を読んだところだから、この部分をちょっと訳してみよう。

フィヒテの知識学、一名「究極学の教え」は、この(カントの)アーチ式建築の要石を加えるものだった。事象や実体からではなく行為から始めることによって、フィヒテは確信をもってスピノザ説に最初の致命的な一撃を与えた。もっとも彼自身、スピノザから学んではいるのだが。そして、真に形而上学的な体系の理念を、また真に体系的な形而上学の理念を(つまりその源泉と原理とを自己のうちにもつものとして)提出した。
「しかしこの根本的理念を、彼はとるに足りぬ概念の重々しい集積をもって、また自発的反省の心理学的行為をもって、あまりに作り上げすぎてしまった。
「こうして彼の理論は、むきだしの自我主義へと、「自然」に対する傲慢で過剰にストイックな敵意へと、生命なき、神なき、要するに聖ならざるものへと変質していくのである。
「いっぽう彼の宗教は単なる秩序のための秩序*1という仮定のうちに存する。そこではあからさまに神に呼びかけることが許されている。また彼の倫理は、自然な感情や欲望に対する苦行的な、ほとんど僧侶のような禁欲のうちに存する」

これだけ見ると、どうもコールリッジはフィヒテをあまり高く買っていないようだ。

この前後の数章は、デカルトからシェリングにいたる近代哲学を扱っていて非常に興味ぶかい。それと、そのあとのほうに「想像力について」なる一章がある。コールリッジはもちろんカント以来の「構想力」(Einbildungskraft)については熟知していたと思われるので、ドイツ流の「構想力」と英国流の「想像力」とが詩作においてどのように関係しているのか(あるいは関係していないのか)、そのあたりのこともかなり気になる。

この本の訳本としては、桂田利吉のものをもっているけれども、これは哲学関連の部分をばっさりと切り捨てた抄訳で、いまの私の役にはあまり立たない。それと、これはあまり書きたくないのだが、この本の冒頭の一文を読んで、この訳はちょっと信用できないのではないか、と不遜な気を起こしたこともある。というのは、

  • It has been my lot to have had my name introduced both in conversation, and in print, more frequently than I find it easy to explain, whether I consider the fewness, unimportance, and limited circulation of my writings, or the retirement and distance, in which I have lived, both from the literary and political world.

という文が

  • 私の作品が僅かで何等の重要性もなく、又限られたほんの僅かの人々の間にのみ読まれていた為か、或は文学や政治の中心から遠く離れた遠隔の地に隠遁的生活を送っていた為か、説明に困難を感ずる程私の名が屡々話題にも上り、新聞雑誌等にも持ち出されるのが私の運命であった。

と訳されているけれども、なんだかしっくりこない変な訳ではないだろうか。

*1:秩序ordoには教団の意あり