ギッシング「南イタリア周遊記」


小池滋訳の岩波文庫(1994年)。ギッシングが晩年(といっても彼は46歳で死んでいる)、健康が衰えてからこころみたイタリア旅行の記録で、訪れた町は、パオラ、コゼンツァ、タラント、コトローネ、カタンツァーロ、スクィラーチェ、レッジョとなっている。

こういった地名を見ただだけでなにかイメージがわく人がどれくらいいるだろうか。たぶん現在でもそんなにポピュラリティはないだろう。いまから百年前ならなおさらだ。といっても、ギッシングはことさら僻地を選んで旅をしているのではない。彼には彼なりの「旅のいざない」があって、それは日ごろ親しんでいる古典文学にあらわれた町をどうしても自分の目で見たい、という悲願に発するものだった。パオラ以下の町はいわば彼の個人的な歌枕なのである。

こういう旅のしかたは非常に共感できる。自分ももし暇があったら、そういう酔狂な旅をしてみたいと思うからだ。しかし、旅のしかたに共感をおぼえるのと、その記述に感興をおぼえるのとは別だ。個人的な体験に普遍性をあたえるのは至難のわざである。ギッシングもまたこの本でそれに成功しているとはいいがたい。

そんななかで私がいちばんおもしろいと思ったのは、スクィラーチェを描いた部分だ。これは苦難つづきのギッシングの旅のうちでも、その最底辺を画するものだろう。ここで著者がなめた辛酸の数々は、ほとんどグロテスクの域にまで達している。しかし、それを描写する著者の筆はなぜか妙に楽しげで、そのことがこの部分にふしぎなユーモアの効果を与えている。

つらい現実をユーモアをもって切り抜けること──こういうところに英国流のジェントルマン気質をかいま見たような気がした。