小枝で歯を磨く


バイイの希仏辞典を見ていると、schinotroktesという語にこんな説明が出ていた。

「ランチスクの木、あるいはそれでできた楊枝を噛んで歯を白くする(人)」

これを読んでただちに思い出したのは、かつてロンドンのモスクで言葉をかわしたある回教徒のことだ。彼は私と話をしているあいだ、ずっと10センチくらいの木の枝をくわえていた。気になったので訊ねてみると、この枝を噛んでいると歯が白くなる、おれは歯磨きなんかしない、これだけで十分だよ、と小枝を示しながら白い歯を見せて笑った。そのとき、その木の名前も聞いたはずなのだが、あいにく失念してしまった。

それから約十年。ふと見た辞書にそのことが書いてあったので、ちょっとびっくりした。あれはてっきりあの回教徒の個人的な習癖、あるいはせいぜいアラビア人のあいだに広まっている慣習だと思っていたが、古代ギリシャにも同じような風習があったのだ。このことからしても、地中海世界が意外に地つづきなことがわかる。

さて、このランチスク(lentisque)と呼ばれている木だが、ここに写真入りで説明が出ている。用途の欄に、この木の樹脂からとれるゴムはつよい香気をもち、古代にはチューインガムとして使われた、とある。枝を噛むのとゴムを噛むのとではちょっとちがうけれども、いずれにしても歯に効果があることは確かのようだ。

ちなみに、スタンダード仏和の旧版には、ランチスクの訳として「乳香」とあるが、これは明らかにおかしい。乳香はあくまで香であって木ではないからだ。新版ではいちおう訂正されているが、それにしてもいったいどうして乳香なんていう訳が出てきたのか、ソースを知りたいものだ。


(蛇足)
香といえば、ラブレーの考案にかかる割れ目安息香(maujoin<benjoin)なるものがある。私のいちばん好きな香は、もしかしたらこれかもしれない。