カロッサ「ドクトル・ビュルゲルの運命」
手塚富雄の訳本の3冊目(岩波文庫)。カロッサなんて聞いたこともない名前だが、どうやら本職は医者のようだ。この本は彼が三十歳台なかばで書いた処女作らしい。青年医師のビュルゲルを主人公とする日記形式の物語で、ちょっと鴎外の「カズイスチカ」を思わせるところもある。しかし、ここには鴎外にみられるような洒落っ気は皆無だ。もうまじめもまじめ、クソまじめといってもいいような小説。
この小説は二十世紀初頭の「ウェルテル」といわれているらしい。しかし、この本を包んでいる雰囲気はウェルテルみたいなロマンチックなものではない。なにしろ主人公は青年のくせにすでに老境にあるかのような所帯やつれした人物だ。この全篇にただよう憂鬱感は、むしろロダンバックの「死都ブリュージュ」とか、あっちのほうに近いのではないか。ロダンバックの小説をおもしろく読めるひとにはカロッサもおすすめだ。
残念ながら自分にはロダンバックと同様、あまりおもしろいものではなかったが、この小説で興味をひかれるのは、作者の世界観の根底にマクロコスモスとミクロコスモスの照応があると思われる点だ。具体的にいえば、人体をも自然の延長として眺めるということ。その意味で、カロッサはゲーテやパラケルスス、さらには古代のエンペドクレスにまでその系譜をたどりうる作家なのである。
「最も単純な地上の物質、たとえば鉱物とか金属とかいうものにわれわれが感ずるあの切ない憑かれたような喜びは、けっきょく、われわれ自身がそういうものから成り立っており、自分では気がつかぬが、たえずひそかに、それらのものに復帰しようと願っているところから、生ずるのではあるまいか」
「このぴかぴか光る筒(顕微鏡)を通してひたすらに
人間の腐敗の花を見つめる私には
天界のうつくしい光を探求する
どんな天文学者の勤勉も及ばぬだろう」
こういう鉱物的思考(?)はちょっと自分の趣味にもあう。