「唯一者とその所有」つづき


下巻読了。これは相当に過激で、どこまでも真摯で、完全にまっとうな本だ。スティルネルはこの本で「神」を葬り「人間」を殺す。「人間」が死んだあとにやってくるのは「唯一者」だ。そして、この唯一者はおのれを神にひとしい存在に祭り上げる。

上の文で括弧でくくった言葉は、もちろんすべて観念だが、「唯一者」だけは観念ではない。なぜなら、唯一者とはいまここにいる私でありあなたであるからだ。ただ、著者のいう唯一者とは、たんに個々の人という意味ではない。それはいわば自覚せるエゴイストであり、あらゆるものに「否」をたたきつける反逆者である。著者の言葉によれば、反逆者とは「自己を起こす人」のことで、その典型はたとえばイエスに見出される。

唯一者であるためには、なによりもまず傑出した個人であることが要求される。デルフォイの神託をもじっていえば、「汝自身であれ」が唯一者のモットーでなければならない(スティルネルは「汝の価値を実現せよ」と書いているが)。自分自身であるためには、与えられた「自由」すら足下にふみにじるくらいの気概がなければならない。

唯一者の価値の実現、それは目標を未来におくことではなく、いまここでただちに実現されるべきものだ。著者の言葉を引けば、

「僕が自分を確信でき、最早自分自身を探さないときに初めて、僕は僕の所有である。僕は自分を持つ、だから、自分を使用し、享楽する。……旧い見解では、僕は自分自身を目指して行く、が、新しい見解では、自分自身から出てくる。前者では、僕は自分自身を憧れ求めるが、後者では、僕は自分を所有し、人がその他のあらゆる財産を取り扱うように、自分を取り扱う──僕は自分の好むがままに自己を享楽するのである。僕はもはや生活を気遣うことなく、むしろそれを「蕩尽」する」

なんだか子供が駄々をこねているような理屈だが、じっさいスティルネルの思想は子供の思想だ(完全に成熟した思惟をもつ子供、といってもいいが)。だからというわけではないが、最近かまびすしい「いじめ」の問題にも本書は有効な示唆をあたえてくれるのではないかと思う。なによりも、「いじめ」の被害にあっている子供たちにこの本を読んでほしい。そして、世間というものは自分が考えているよりももっと広く、「自己」はその世間よりもさらに広いのだということを(錯覚でもいいから)自覚してほしい。


(付記)
岩波文庫の草間平作訳は、独特の名調子でおもしろいのだが、お世辞にも読みやすいとはいえないし、誤訳も少なからず見られるようだ。これから読んでみようというひとは、現代思潮社から出ているものにつくのがいいかもしれない。シュティルナーの原文は、こちらに全文が出ている。