T.S.エリオット「寺院の殺人」


これも「詩的演劇」(白水社)に入っているもの。「夢の劇」や「すばらしい靴屋の女房」はどこが詩的なのかわからないような作品だが、この「寺院の殺人」はたしかに詩的演劇と呼ばれるに値する。少なくとも日本語で読むかぎりはそうだ。登場人物は少なく、身振りはほとんどなく、コーラス(コロス)が使われていることもあって、まるでギリシャ悲劇でも読んでいるような気分になってくる。

内容は1170年のトマス・ベケット大司教の殺害事件をほぼ忠実に再現したもの。初演の場所はカンタベリーの大聖堂。つまり、約800年前、じっさいに殺害が行われた現場で演じられたわけだ。劇の最後のほうで、殺害者たちが自分たちの行為の歴史的役割についてじかに観客に語りかける場面があって、読んでいるほうは一瞬まごつくけれども、初演の形態を知っていれば、すんなりと受け入れることができる。

劇の大詰めで、トマスは部下の僧侶たちにこういう。

「おまえたちの論法は、世間と同じで、結果によってある行為が善か悪かを決めようとする。事実というものにおまえたちは頭が上がらない。……そして時がたつうちに多くの行為の結果はまじりあい、とどのつまりは善と悪の区別もごちゃまぜになってしまう。わたしの死は時間のなかでは理解されはしないだろう、私の決断は時間のそとでなされるのだ、……」

エリオットは、この「時間のそとでなされる決断」にかたちを与えようとしているようだが、私にはもうひとつピンとこなかった。なによりもこの劇自体がじっさいの歴史という「時間のなか」にあまりにも密着しているからだ。

この劇は、殺人(殉教)の話であることをべつにしても、血なまぐさいイメージに満ちている。それはとくにコーラスの科白に顕著だ。このコーラスには、どことなくケルト的なものが感じられる。もっとはっきりいえば、イェーツの一連の芝居の反響のようなものが感じられる。私見によれば、そのことが詩的な感興をおおいに高めているように思われるのだが、どうか。