コリャード「懺悔録」


きつい読書(イグナチオの「霊操」)の息抜きとして読んだもの(大塚光信校注、岩波文庫)。これは江戸時代初期のキリシタンの(仮想的)告解録だ。はじめのほうの「教義宣言」の部分は「どちりな・きりしたん」のように師と弟子との問答体になっていて、つづく「告解」の部分はもっぱら弟子ばかりが一方的にしゃべり、最後にふたたび師が登場して、弟子に教えをたれるというのが全体の構成だ。

この本の原書は日本語とラテン語との対訳本で、序には「日本の言葉にようコンヘションを申す様体と、またコンヘソルより御穿鑿めさるるための肝要なる条々」とある。つまり日本にやってくるヨーロッパ人神父のために、日本語による告解の手引きとしてつくられたのがこの本だ。

「告解」の部分に書かれているのはすべて罪の告白だから、本来は深刻なもののはずなのだが、文体(当時の九州や上方の方言らしい)のせいか、全体の調子はけっして暗くはなく、なにか滑稽本でもみているような、のんきな気持で読むことができる。これを読んでいると、いまも昔も日本人というのは変らないな、と思う。そのことはとくに邪淫戒をやぶった懺悔に顕著にあらわれている。とんでもないことを告白しながら、罪の意識はかぎりなく稀薄だからだ。

罪をおかしても、罪と意識しないかぎりは無垢でいられる。キリスト教の歴史というのは、ある意味では罪の意識の深化の歴史ではないか、とふと思った。