イグナチオ・デ・ロヨラ「霊操」


とりあえず読了(門脇佳吉訳、岩波文庫)。とりあえず、というのは、この本はただ読んだだけでは意味がないからだ。それは練習問題つきの参考書を、問題を解かずに解説だけ読むよりももっと意味がない行為だろう。

それはともかくとして、霊操とはなにか。それは「どんな乱れた愛着にも左右されずに、自分自信に打ち勝ち、生活を秩序づけること」を目的とするものらしい。これだけ読めば、そんなけっこうなことなら自分もやってみたい、とだれでも思うだろう。私もそう思って、仮想的に霊操をやってみるくらいの意気込みで読みはじめた。

ところが、である。いきなりとてつもなく高いハードルが用意されていて、これがけっきょく最後まで越えられないまま読了してしまった。なんとか越えようと努力はするのだが、しかしこのハードル、努力をしたからといって越えられるようなものではないのだ。

そのハードルとはなにかといえば、イエス・キリストをほんとうに神の子だと信じることである。いわゆる宗教伝説に属するようなこと(たとえばマリアの処女懐胎)までほんとうのこととして信じることが前提されているのだ。

キリストに神性が宿っていたことは認めてもいい、というか認めるべきだと思う。しかし、その神性がほんとうに神から聖霊によって人間の胎内にもたらされて、ふつうではありえないようなイエスの誕生につながったなどとどうやったら信じることができるだろうか。比喩としてではなく、歴史的事実として信じることが?

さらに、いくらイエスが布教に熱心だったといっても、また全人類の救済ということを考えていたとしても、それから2000年もたったこんにち、極東の島国に生きている私という人間の救済まで考えていたとはとうてい信じがたい。しかし、イグナチオのいうことを信じれば、どうもそういうことになるらしい。

というわけで、霊操をやろうとすれば、まずその前にキリスト教徒であることが必要になる。そしてキリスト教徒になるためにはイエス・キリストを信じることが必要なのである。となると、自分には霊操をやる資格などはなからなかったことになる。……

イグナチオの霊操は日本にも古くから伝わっていて、キリシタン時代に「スピリツアル修行」という題で翻訳され、ひろく読まれたという。たしかにキリスト教徒が読めば、なんらかのかたちで霊的な慰めを得られるような本にはちがいない。いわゆる「キリストにならいて」と同じような本として読まれたのだろうか。

キリストにならいて、なんて私にはとうてい無理である。キリストにならいし人々にならいて、くらいが関の山だ。それさえもできるかどうか、おぼつかなくなってきた。