プレートル指揮「ドビュッシー、カプレ、シュミット」

sbiaco2006-05-04



引きつづきポオの詩を読んでいる。参考にしているのは島田謹二日夏耿之介の訳本。どちらも玉石混交で、全体としてどっちがいいともいえないけれども、しいていえば島田のほうだろうか。日夏は措辞に凝りすぎて、古語辞典でも引かなければ読めないような訳になっている。「ここに思想王うしはき給ひ崛然たり矣。天使首座とてかくも玉敷くみあらかの上をばやはか翔らまじ」といった調子。

島田訳で同じ箇所を引くと、「「心」とう帝王(きみ)の領土(みくら)に、そは立てり! かくのごと美しき宮居の上(え)には最高天使(セラフ)だにその翼ひろげたることぞなき」となっている。これも読みやすいとはいえないけれども、まあこのくらいがぎりぎりのラインか。わかりやすく口語で訳しては、訳詩が詩にならないからだ。

さて、ポオといえば英文学では人気作家なのに、どういうわけか歌曲の対象にされていない。それどころか、ポオの作品をモチーフにした音楽自体がきわめて少ないような気がする。そんななか、ポオの愛好家にはうれしいものに、ジョルジュ・プレートルがEMIに吹きこんだディスクがある。ドビュッシーの未完のオペラ「アッシャー家の崩壊」とカプレの「赤き死の仮面」、シュミットの「幽霊宮のためのエチュード」が収められている。

このCDでは、冒頭のドビュッシーの曲がすべての雰囲気を決定している。この曲にあらわれる、真綿で首をしめられるような不安な響きは他のドビュッシーの作品にはみられないものだ。マドリーヌ姫のアリアもこの世のものとは思えないようなふしぎな旋律で、未完におわったのがつくづく惜しまれる。

カプレの曲は、ハープを独奏楽器に使っているのがおもしろい。ハープと弦楽合奏との組み合わせはドビュッシーにもあるが、カプレは原作の雰囲気にあわせてか、いっそうアブストラクトな響きを狙っているようだ。ちょっとやりすぎの感なきにしもあらずだが、このCDのなかではいちばんまとまった曲で、いかにもポオらしい雰囲気をたっぷり味わうことができる。ポオの詩には心を撥弦楽器にたとえた表現がいくつもあるが、それをハープ(私にとっては撥弦楽器の女王)で表現してしまったところがすばらしい。

最後のシュミットの曲は、冒頭の部分だけがポオらしく、そのあとの展開はちょっと意味不明だ。好意的な耳で聴けば「それなり」の瞬間もあるにはあるが、全体的にみると、どうも大したものではないのでは、と思ってしまう。まあ、この一作だけでシュミットの力量をうかがうのは無理なので、あまり断定的なことはいいたくないけれども。