言葉が先か、霊感が先か

sbiaco2006-04-02



ユリイカ」の臨時増刊号(ステファヌ・マラルメ特集、1986年)を見ていると、詩人の高橋睦郎氏が鈴木信太郎の訳詩を評して、「鈴木美学の度のきついレンズを通して著しい屈折を受けたマラルメ」と書いている。さすがは詩人、うまいことをいうな、と思った。

マラルメは、詩は霊感で作るものではない、言葉で作るものだ、とはっきりいっている。鈴木信太郎の訳詩は、そのマラルメの詩法に忠実な日本語の詩なのである。鈴木信太郎自身にもとより霊感などあるはずはない。彼はもっぱら言葉を操作することで、ともかくも「鈴木美学」と称される(?)詩的宇宙を創造したわけだ。

このような、言葉そのものを創造のみなもととみなす考えは、たぶん古来日本にもあったと思う。ただそれが美学として体系化されなかっただけだ。鈴木信太郎マラルメを通じてその玄義にふれ、それをおのれの美学にした。高橋氏が敏感に反応したのも、鈴木訳のこういった側面だったにちがいない。

さて、とりあえず散文訳を終えた目でもう一度鈴木信太郎の訳詩を読むと、意味不明の部分も含めて、少なくとも詩としてりっぱに成り立っている。それに対して、私の散文訳をいくら行にわけて書いてみても、とうてい詩にはなりっこない。あらためて詩とは言葉で作るものだと思う。