マラルメ対ドビュッシー

sbiaco2006-04-01



ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」を聴いていると、いつもきまって大きい消しゴムでもかんでいるような気分になる。その消しゴムのようなものが体内でふくれあがるような、奇妙な感覚だ。今回の分を訳しながら、ふとそれはマラルメの詩にある(re)gonflerという言葉に呼応するような感覚ではないか、と思った。そうすると、ドビュッシーの音楽に感じられる大きい消しゴムのようなものの実体は、牧神とニンフとの「くさぐさの思い出」だということになる。「〜前奏曲」には「思い出」がいっぱいつまっていて、それがある種の表面張力をもちながら内部からふくれあがっているわけだ。

しかし、言葉でいうのはたやすいが、そんなことがじっさいにありうるのだろうか。音楽が思い出で満たされて、それでふくれあがるなどということが。

それはともかくとして、この曲をドビュッシーにピアノで聴かされたマラルメは、不快の情を隠すことができなかったらしい。それは曲が不出来だからではなくて、出来すぎていたためだろう。「牧神の午後」を完璧にしあげて、音楽からその富を奪還したつもりだったマラルメは、その富がふたたび音楽へと奪い去られるような気持を味わったのではないか。「このようなものは思いもかけなかった」という、賞賛とも非難ともつかないマラルメの言葉に、彼のとまどいと苦渋とが見え隠れしているようだ。