「牧神の午後」はラール・ポエティックか?

sbiaco2006-03-29



鈴木信太郎の「牧神の午後」の訳詩(岩波文庫ほかに収録)は、ある意味で超訳といってもいい。今回、原詩を熟読してみて思うのは、意味の層が多重になっていて、その下層から上層までがパリンプセストのように透視できるような構造になっていることだ。そして鈴木信太郎は、あろうことかその最上層のまだ上、超越的な(?)層に視座をすえてこの詩を訳している。

それは、ひとことでいえば、この詩を一種の「詩法」として、つまり芸術創造の神秘を語るイニシエーションの詩として見る視座だ。それはそれで魅力的な観点だと思うけれども、いざ現物を前にすると、それが途方もない見当違いだということに気づく。そのことは、鈴木信太郎の苦しまぎれの解釈ぶりから逆にうかがうことができる。

というわけで、今回訳した部分では鈴木信太郎の解釈からおおきくはずれることになってしまった。もちろん、字句の読みについては有益な助言を与えられているわけだから、いちがいに貶すつもりはないけれども。

蛇足をつけ加えておくと、自分は原詩の最下層を掘り起こすつもりで訳している。