「牧神の午後」について


ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」のもとになったマラルメの「牧神の午後」は、鈴木信太郎によれば「フランス詩歌の最高水準を示す作品の一つであり、……人間の純粋な表現活動の一方向の窮極を指示しているとさえ思われる」ということだ。しかし、私はなんべん読んでもこの詩がそんなにすばらしいものだとは思えない。いや、その前に、そもそもこの詩の意味するところがわからない。

さいわいにして、その鈴木信太郎によるこの詩の詳しい釈義が「半獣神の午後其他」(昭和22年、要書房)に載っている。これを読んでみた。

なるほど、そう読むのか、と蒙を啓かれたところが少なくない。たしかに、こんな破格の詩を註釈もなしに読むのは無理、というか無謀だった。なにしろ現在と過去、夢想と現実とが境目なく併置されているのだから、よほどちゃんとした見とおしをもっていないと読み違えるのは必定だ。しかし、こうやってパラフレーズされたものを読むと、おもしろいことはおもしろいけれども、そんなに高雅なものでもないな、と思う。なによりも題材があまりに野卑で、こんなポルノまがいの詩がフランス詩の最高傑作でいいんですか、と鈴木信太郎に訊いてみたくなる。

まあ、いずれにしろ、長いこと読めなかったマラルメの代表作を最後まで読みとおせたのはよかった。

さて、この詩のわかりやすい翻訳はないものかと思ってネット上を探してみたが、どうもそれらしいのが見つからない。有名な詩だから一つくらいはあってもいいと思うのだが。……しかたがないので、鈴木信太郎の釈義を参照して、自分なりに訳してみることにした。マラルメ著作権は切れているはずなので、ネットで公開してもまず問題ないと思われる。きょうはとりあえず最初のほうだけ。