マゾッホ「聖母」
訳者はこの本のあとがきに、「この作品は、いわゆるマゾヒズムとは無縁の作といってよいであろう」と書いているが、私の見るところ、これはマゾヒズム文学以外の何ものでもない。男が女王様に鞭打たれて屈辱と歓喜とにむせぶ話ばかりがマゾヒズム小説ではないと思うからだ。最悪の事態をはるかに遠望しつつ、それを積極的に回避するわけでもなく、むしろ周囲の状況に押し流されるままに、その最悪の事態へじりじりと巻き込まれてゆき、しかもそのような自己放棄に一種の満足と安心とをおぼえるような心性、それこそがマゾヒズムではないだろうか。
そして、このような一連の心理に触媒のような作用を及ぼすのが「嫉妬」だ。この小説では「鞭」にかわるものとして、「嫉妬」が大きくクローズアップされている。ディドロが「嫉妬深い男は陰気だ──暴君のようにね」といっているが、じっさいこの小説には陰気な嫉妬が暴君のように荒れ狂っている。みずからを切り裂き、他人を切り裂く鞭として。
ほかにも探せばマゾヒズムの真諦にふれるような箇所はいくつもあるだろう。そういえば、この小説のクライマックスはどことなく三島の「午後の曳航」のそれを彷彿させる。そのことだけとってみても、「聖母」が真正のマゾヒズム小説であることの証左にはならないだろうか。
さて、この小説を読みながらずっとイメージとして頭に浮かんでいたのは、イストヴァン・チョクの描く「流血の伯爵夫人」だ。絵のモチーフになっているのはハンガリーのエルゼベート・バートリで、かのボロヴズィックも彼女を題材にして映画をつくっている(「インモラル物語」)。いずれにせよ、マゾッホが「聖母」を書くにあたって、この伯爵夫人のことを念頭においていたのはほぼ確実だ。