わたしにとっての原風景


岩田慶治という人の「花の宇宙誌」(青土社)という本のなかに、「あなたにとっての原風景とは何か」という設問がある。原風景とは、いってみれば自己のアイデンティティの根本を支えている風景やイメージ、もしくは原体験のことだ。そして、学生たちにレポートを書いてもらったところ、そのほとんどに共通する三つの要素があった、とのことである。

1.小さい生き物や草花のテーマ、故郷イメージの記憶(これが前景にあたるとのこと)

2.山や森、海や空のイメージ、色彩でいえば青系統(これは後景にあたる)

3.その前景と後景とをつないで一枚の絵にするための契機、すなわち個人的な情念の働き

これを見て、私はどうも嘘くさいな、と思ったのである。こんな、唱歌の「ふるさと」のような原風景(うさぎ追いしかの山、小鮒釣りしかの川……)をもっている学生が大多数を占めている、なんていう事態があるだろうか。

自分のことを考えてみる。わたしにとっての原風景、それは夜になると裏窓から見えるゴミ焼場の煙突の赤い燈火であり、かまぼこ型にくられた地下鉄の駅であり、表を通る車の振動にゆれる二階家の畳の感触であり、友人の家に並んでいた珍しい漫画本であり、デパートのエレベーターの上にある時計の文字盤のような階数表示機であり、どこまでも続くだだっぴろい瓦礫だらけの工場用地であり……そこには自然に属するものなど何もありはしない。

著者は原風景に「青」をもってきたいらしく、私も子供のころいちばん好きな色は緑だったけれども、自分の原風景をさぐってみると、そこに支配的なのは青ではなくて赤である、燃える火の色であり、流れる血の色であり、安物のおもちゃに塗られた色である。

そういう私にとって、著者の説く「自然と一体化して生きる」ことほど不自然なことはない。それは原風景から遠く離れて異郷に身を置くことにひとしい。せいぜい自分にできるのは、たとえば岩田氏の本を読んで、「自然とともに生きる人々」について思いをめぐらすことだけである(それすらも実感の伴わぬ、空々しい作業であるが)。