アンドレーエフ「血笑記」


「書物」タグをつけたが、読んだのは近代デジタルライブラリーのもの。

二葉亭のことがちょっと気になって、まずはネットで「あひびき」を読んでみたら、意外に自分の好みと合致したので、次にアンドレーエフの翻訳を読んでみた。これはロシア物にありがちな(?)狂人日記、というより徐々に狂人になっていく日記である。読んだ感じとしては、かりに漱石の「夢十夜」に続篇「第十一夜」があったとして、それを長く長く引き延ばしたらこうもなろうか、というような小説。

題名にもなっている「赤い笑」とは、平たくいってしまえば、人間の根底にひそむ獣性、流血への渇きのことだが、それが寓意や象徴になっておらず、あくまでも即物的に書かれているところがおそろしい。血が噴き出るところ、火が燃え上がるところに、かならずこの赤い笑があらわれて、それが主人公の兄弟を徐々に狂気へと追いやっていくのだ。

この小説が書かれたのは1905年、あたかも日露戦争たけなわのころである。著者が現実に戦場へ赴いたのかどうかは知らないが、ここに描かれた戦争のグロテスクさはほとんど超現実的なレベルに達している。この吸血鬼的といってもいいような嗜血趣味をどう解すべきか。そこには、たんに扇情的といってはすまされないような、作者の倒錯的な性癖が働いているような気がする。

以下、印象的な描写を引用してみよう。

「志願兵が何か言おうとして口元を動かした時、不思議な、奇怪な、何とも合点の行かぬ事が起った。……眼前には今迄蒼褪めた面の在った処に、何だかプツリと丈の蹙った、真紅な物が見えて、其処から……血がドクドクと流れる処に、歯の無い顔でニタリと笑って赤い笑の名残が見える。……」

「諸君は血を飲むだことが有るか? 血は少し粘々する物だ、少し生温かな物だ、其代り真紅な物だ。而して血が笑うと、真紅な愉快な笑声が聞える!…」

「──呪う所の戦争に感れて、其狂味を帯びて来る。兄の話のドクトルのように、妻子珍宝諸共に人間の棲家を焚きたくなる、その飲む所の水に毒を投じたくなる、所有死人を棺から引出して亡骸を穢れた人の寝台の上に抛付けたくなる。汝等人間、妻を抱き情婦を抱いて眠る如くに、死骸を抱いて睡り去れ!」

「これが赤い笑だ。地球が狂気になると、こういう笑方をするものだ。お前知ってるだろう、地球の気の違った事は? もう花も歌もなくなって、地球は円い、滑っこい、真紅な、皮を剥いた頭のような物になって了った。見えるか?」

こうやって抜書きしてみると、二葉亭の文体はのちの大衆小説作家(たとえば夢野久作)にも影響を及ぼしていそうだ。