心の貧しい人


「幸いなるかな心の貧しき者、天国はその人のものなり」というのは有名な山上の垂訓の冒頭にある句だが、この「心の貧しき者」というのがどういう意味なのかよくわからなかった。ここでは心が貧しいことはけっしてわるい意味ではなく、むしろ天国に入るための不可欠の条件になっている。しかし、だれかに向って「あなたは心の貧しい人ですね」といったらどうだろう、怒り出さないまでも、かなり気をわるくするんじゃないかと思う(ことにキリスト教を知らない人ならば)。

エスはほかのところでも(ルカ伝6:20)、「幸いなるかな貧しき者よ、神の国は汝らのものなり」といったり、あるいは「幼児らを許せ、我に来るを止むな、天国はかくのごとき者の国なり」(マタイ伝19:14)といったりしている。同じような表現は聖書のあちこちに散見するだろうが、しかし「心の貧しい人」といういいまわしは山上の垂訓以外には見当らないようだ。

エスは金持(すなわち物質的に豊かな人)にはことのほか手厳しく、彼らが天国に入るのはラクダが針の穴を通るよりむつかしい、などといっている。天国は物質的に貧しい人々、つまり貧乏人のためのものだ、というわけである。ところが、物質的のみならず精神的にも貧しい人々、といわれると、私なんかにはよくわからなくなる。イエスにいわせれば、そういう人々にこそ天国の門は開かれているらしいのだが……

そう思いながらネットで調べていると、ドイツにノイエ・エヴァンゲリスティッシェ(新福音派?)による聖書というのがあって、これによると当該箇所は「神の前でおのれの貧しさを知るものは幸いである」となっている。なるほど、そういうことか、とはじめて納得がいった。心の貧しい人というのは、神という極大を前にしてひたすらおのれを空しくすることができる人の謂なのだ。神の全に対する人の無といえば、まったく正反対のもののような気がするが、しかしここにおいて全と無とは矛盾しない、それどころか、両者はともに「一」であることにおいて等価なのである。相反するものの一致とはこういう事態をさすのだろう。

しかし、こういうふうに説明的に訳されると、たしかに分明は分明なんだけど、どうもいささかニュアンスに欠けるうらみがある。そこへゆくと、「心の貧しき者」という表現にはやはり一種の魅力というか味があって、これはこれで捨てがたいものがありますよね。