手塚アニメとわたし


というエッセイ風の恥ずかしいタイトルをつけてみたが、まともなエッセイを書くつもりはない。というのも、私は手塚アニメの絶大な影響のもとに育ったと自分では思っているけれども、よくよく考えてみると、それらアニメの筋も、おおざっぱな内容も、セリフのひとつすら思い出せないのである。ただ漠然と、子供のころよく見ていたなあ、という記憶があるばかり。こんなことで手塚アニメについて何が書けるというのか。

それでも、私がその後熱中したもののルーツをさぐってみると、どうもその源泉は手塚アニメにあるんじゃないか、と思うことが少なくないのである。それがほんとうかどうかは分らない、しかし自分にはそう思えてならないのだ。委細は省略。で、そんなことが度重なったあげく、手塚アニメこそが自分の趣味や嗜好を決定した大元である、というような偽の記憶ができあがってしまったのではないだろうか。

しかし、それが偽の記憶かどうか、どうして自分にわかる? もし手塚アニメが私の意識の層を突き破って、無意識の層にまで食い入っているとしたら、記憶に呼び戻すことができないということは、記憶がないことの証明にはならない。そして真に人の行動を律するのは、意識的でない、無意識的な記憶ではないだろうか。

話はいきなり飛ぶようだが、私は親しい人、親しくない人、はるか昔に少しだけつきあった人、いろんな人の声を、ほぼ当時聞いたとおりに脳内で再生できる、それなのに、自分の両親の声だけはいくら再生しようとしてもできない。これがふしぎでたまらなかったが、それはおそらく両親の声が私の表面的な記憶の層の下に沈んでいるからだろう、つまり掘り出すことができないほど深いところへ入りこんでしまっているので、その埋蔵された声が、いまなお私の言語活動を根本から支えているのだ。

そう考えると、手塚アニメは私にとって、《思い出すことができないほど》根源的なものである、ということもできるだろう。

youtube で「ふしぎなメルモ」を見ながら、そんなことを考えていた。ちなみにこのアニメ、いまならほぼ全話をタダで見ることができる。