ネット上の詩論ふたつ


子供のころから詩が苦手で、いまだに詩というものがよくわからない。しかしわからないなりにも好きな詩と嫌いな詩とどうでもいい詩との区別はつく。それだけ区別がついていれば十分じゃないか、と思うが、問題は「好きなのにわからない」という場合である。マラルメの詩の大部分がこれに相当する。

下にあげるのはネットで見つけたマラルメの「YXのソネ(ptyxのソネット)」の解釈。すばらしく説得的な読解で、なるほどこんなふうになっているのか、と目からウロコがぼろぼろと落ちる。これに比べれば私が前に行った解釈=翻訳などは児戯にひとしい。つくづくすごい読み手がいるものよ、と感嘆しながら、しかしこんなふうにパズルを解くように詩を解釈しつつ、なおかつポエジーを「実感」できるのかどうか、というのがまた次の段階での詩の鑑賞の問題として残ってしまった。正確な解釈と鑑賞とは両立すべきものだとは思うのだが……

さて次にあげるのは、日夏耿之介の後期の詩篇「呪文」の解釈。こっちは私にはあまり説得的とはいえず、「うーん、そうかなあ……」と首をひねってしまうことがしばしばだが、自分の見立てに忠実に一篇の詩を読み解くというその姿勢はすばらしい。ここには少なくとも詩を読むという行為における、読み手と書き手との間の「侵しによる侵され」(相互侵犯とでもいうべきか)がある。また解釈の是非とはべつに、難解の語句につけられた註も私にはありがたかった。

教訓。日夏はともかくとしてマラルメの場合、「読書百遍意おのづから通ず」という格言はまったく通用しないこと。


(付記)
前にアップした「ptyxのソネット」の最後の一行を、上記の論稿を参考にして改めてみた。原詩の septuor(七重奏)を七人姉妹すなわちプレヤデス(昴)に翻すのはさすがに無理がある(プレヤデスは南の空にしか出ない)、というわけで、すなおに「七つの星の奏楽」としておいた。