夏目漱石「草枕」


草枕」もまだ読んでなかったのか、と呆れられるかもしれないが、私の未読の漱石は多い。むしろ読んだもののほうがはるかに少ない。それにはちょっとした理由があるのだが、その話はまたいつかすることにして、この「草枕」。これは小学生のころ買ってもらった「坊っちゃん」という子供向けの漱石作品集にも入っていた、が私はその冒頭の数ページで読む気がなくなってしまったのである。いま思えばこんなものを小学生が読める、読んでおもしろがれるわけがない。小学生向けの「草枕」は、冒頭の一節だけでいい。「山路を登りながら……」から「人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう」までで切って「草枕(抄)」としておけばいい。

ところでこの本における漢語もしくは禅語の頻出をどう解釈すべきか。どうもこうもなくて、この小説のいわんとする眼目がまさに禅体験そのものだから、禅語が頻出するのだと解するよりほかない。禅体験そのものというのがいいすぎなら、芸術的方面から見られた、というのを付け加えてもいいが、そういうものとして読まないと「草枕」はただの唯美的な平面的な小説ということになってしまうだろう。うわべの平面性を貫いて屹立する宇宙的地平を暗示するための漢語もしくは禅語の頻出なのだ、というのが私の意見です。

この小説の背景になっている非人情とはもちろん不人情のことではない。むしろ impersonal の訳語と考えたほうがわかりやすい。そう考えると、これは非人称ということでもあって、これもやはり禅的な発想がもとになっていると思われる。そういった東洋的叡智の世界に、ターナーが出て、ミレーが出て、シェリーが出て、メレディスが出る。漱石の仮構した那古井とは、東西のものがつかのまの出会いと別れを果たす、まさに一幅の絵のような別乾坤なのである。

この本のヒロインの那美さんとは何者か。それこそ非人情の世界にあらわれた人情そのものである。「情けの風が女から吹く、声から、眼から、肌から吹く」。語り手の「余」は非人情を指向しながらもたえずこの人情に振り回されている。それがこの小説の筋なんだが、末尾の一節を読むかぎり、そこには非人情の世界を去って人情の世界へ埋没していこうという作者の姿勢がうかがわれる。そしてそれは漢詩俳諧から小説へ、という漱石のその後の軌跡を暗示しているようにも思われる。