マラルメのソネット


私の中でずっとくすぶっていて、いまだ解決していない問題に、「マラルメはほんとうに偉いのか?問題」というのがある。いや、たしかに偉いんだろうけど、そんなに特権化、神格化されるほど偉いのかな、とずっと疑問に思っているのです。日本で出た全集だって、20年がかりで完成したとか、最終巻(第一巻なり!)は2万円もするとか、ちょっとありえないでしょう、ふつうの作家では。ほとんど会社が傾きそうになる企画が通ってしまう作家、それも詩人となれば、もうマラルメくらいしか考えられない。この異様なまでの支持の高さに、はたして本人は釣り合っているのか、というのがかねてからの疑問です。

私はマラルメ愛好家のはしくれですが、はしくれにふさわしくこの全集には手を出してません。これを買っちゃうとなんかはしくれではなくなってしまうような気がするんですよ、このあたりの心理は自分でも微妙で、詳しく説明するとちょっと長くなりますが……

分を弁えるということ以外に、これは私の天邪鬼なところですが、あまりマラルメを分りたくない、少なくとも他人の手を借りてまで分りたくない、という気持があります。マラルメの謎は解けないほうがいい、謎を謎のままで楽しんでいたい、というといかにも怠惰な人間、あるいはマゾッ気のある人間のようですが、たしかにどっちも私にはあてはまっています。そんなわけで、マラルメ愛好家であるにもかかわらず、文献としては岩波文庫の「マラルメ詩集」と筑摩の全集版の「マラルメヴェルレーヌランボー」しかもっていません、これだってぜんぶ読んだわけではない。話にならんと一蹴されても仕方ないと思っています。

ところでいきなり話は変りますが、最近ヴァレリーの論文をいくつか読んで、そこに芸術作品を作る上でのひとつの要素として、「組み立てる」というのがあるという話が出ていました。原語では何というのか、調べていませんが、文学方面でこの組み立てる、構成する、という要素がいちばんはっきりと出るのは、やっぱり詩の場合でしょう、それもいわゆる定型詩、つまり言葉の排列にルールがあるものです。

組み立て、構成とは無縁のものは、絵画にしろ音楽にしろ、芸術作品にはなりえない、というのがヴァレリーの意見でして、これはまたおそろしく古臭い考え方ですが、共感できるところもないわけではない。思いつくまま、気のむくままキャンバスやピアノに向っても、そこから出てくるものなど高が知れています。天才はべつですが、まあ常人がいくらがんばってもダメでしょうね、そして芸術家の大半はいわゆる常人に属します。

マラルメもやはり常人に属すると私は思っています、天才的な、と付け加えてもいいですが、とにかく常人は常人です。その彼が骨身をけずる思いをして営々と取り組んでいたのは、おそらく極小のなかに極大を組み込むにはどうすればいいか、ということだったような気がします。たとえば十四行詩。このコンパクトな形式を破ることなく、しかもそこに無限に近い内実を盛り込むこと、これがマラルメの探求だったと思います。

しかし、これはどだい無理な話なので、マラルメソネットは大半が失敗作、少なくともマラルメ自身の目にはそう映っていたのではないでしょうか。で、もういい加減いやになって、やけっぱちで作ったのがあの「サイコロの一振り」だったのではないかと思います。

まあそれはそれとして、話をソネットに戻しますと、ちなみにこのソネットという言葉はイタリア語で、フランス語ではソンネといいますが、どういうわけか最近ではソネという表記が一般化しているようで、はたしてソネでふつうの人に通じるのかな、と私などはいらぬ心配をしてしまいます……と、そんなことはどうでもいいとして、そのソネもしくはソネットですが、フランスのソネットはとくに規則がやかましくて、形式を重んじるとポエジーが不足し、ポエジーを多量に盛り込むと形式が破綻する、というようなところがあるようです。ましてやマラルメの場合、ポエジーどころか宇宙の全体を幻視するような内容を組み立てようというのですから、その苦労を思うとこっちの額にまで汗がにじんてくるほどです。

もちろんそれは遊びの一種でもあるので、私はあまりよく知りませんが、ちょうどジグソーパズルなんかに近いゲーム感覚もあったと思います。かたちがきまっているところへ語をはめ込んでいく、モンタージュといってもいいかもしれません。

そういう苦労をともなった遊びを追体験するひとつの方法として、マラルメソネットを定型に訳してみる、というのもいいかもしれません。これはもちろん無から有を作り出すわけではありませんから、ほんとうの詩作とは比べ物になりませんが、しかし原詩がすでにあって、それに内容が規定されているので、無から有を作り出す場合よりも制約がひとつ増えている、と考えることもできます。

こちらにいちおうサンプル的なものを出しておきます。

じっさいにやってみて思ったのは、これはジグソーパズルというより、盆栽づくりに近いんじゃないか、ということです。盆栽も私はやったことがないのですが、そのちまちまとした印象といい、いかにも年寄りの手すさびのような語感といい、こういう作業にはぴったりの表現ではないか、いや、たしかこれは佐藤春夫上田敏の訳詩を評したときに吐いた言葉でした。さすが佐藤春夫だけのことはあります。

私もだんだん年寄りになってきたので、こういう盆栽作りのような作業もあまり嫌ではなくなりました。若くて元気のいい人にはあまり薦められません、若いうちからこんなことをやっていると、老後の楽しみがなくなってしまいますよ。

話がジジむさくなってきたので、このへんでやめておきます。