マテリアリストとフォルマリスト


ある特定の音楽について、その指揮者が、あるいは演奏家がどうのこうのという言説にはつねに一種の反感をおぼえる。というのも、ある楽曲がだれかに取り上げられて、演奏というかたちで私たちのもとに届くということがすでに有り難い(つまり稀有な)幸運なので、そういう僥倖に与らなかった曲(いままで書かれた曲の9割強)は、だれからも顧みられることなくアーカイヴの奥にひっそりと眠っているというのが常態なのである。だからどんな演奏家であれ、その楽曲を可聴形態へ移行させてくれたことには感謝すべきであって、その演奏をどうのこうのと批判するのは、やはりどうもおこがましいのではないかとつねづね思っている。

とはいうものの、音楽雑誌にしろネットの論評にしろ、この手の演奏家批判あるいは讃美はいたるところに見られる。こう書いている私だって、ついこの前カール・リヒターをもちあげた。これを要するに、音楽というものは、質料抜きの純粋形相では存在しがたい芸術なのである。

音楽における形相は、少なくとも西洋音楽についていえば、おそらく楽譜というかたちに求められるだろう、これこそが本質であり、いわばその楽曲のイデアなのである。しかしこれだけでは一般人にとってはデュナミスないしはエネルゲイアにすぎない。それがエンテレケイアにいたるには、どうしても演奏という質料を加えなければならない、そうやって、形相に質料が加わってはじめて耳で聴く「音楽」というものが成り立つ。

そういう意味では、先にあげた演奏家がどうのとのたまう人々は、音楽における質料主義者、すなわちマテリアリストなのである。いっぽう、じっさいの演奏がどうであれ、すべてを楽譜の状態に還元することができる人々は形相主義者(フォルマリスト)と呼ぶことができるだろう。そしてたいていの音楽愛好家の中では、このマテリアリストとフォルマリストとが共存していて、両者の区別は、場合によってどちらが優勢になるかの違いにすぎない。

最初に書いた、マテリアリストに対する反感というのも、要するに私の中のフォルマリストのあげる反抗の声だと解しておくのが妥当なところだと思う。