エティックとエステティック


知り合いや仲のいい人、あるいは自分に好意をもってくれている人の作品をこきおろしたりあしざまに言ったりするのは礼儀に反する行いで、ふつう人はそんなことはしない。「あまり興味がありません」と率直にいうことすら憚りがあってなかなか言えない。そういうときは自分をおさえてとりあえず褒めておくのが人としての務めだろう。しかしこれは虚言である、嘘をついているのである。こういう行為をもはたして務め(義務)と呼ぶべきだろうか。

嘘をつくことが義務であるような、そんな道徳はない、だから人は嘘をつくためには道徳の外へ出なければならない、しかしその外部へ出られるようなものがはたして道徳、規範といえるだろうか。カントが夜空の星と並べて驚嘆したような道徳律はそんなに甘いものではない。

モリエールは「人間嫌い」のアルセストを描き出すにあたり、彼にこの徳義を破らせている。おべっかを使うくらいなら死んだほうがましだと考えるアルセストはたしかに喜劇的人物かもしれない、しかしこのくだりはただくすくす笑って済まされるような、滑稽のみを前面に出した場面ではないと思う。笑いは笑いでもなんとなく苦い。ここにあるのはフランス流のエスプリではなくて、ドイツ流のグロテスケというものではないだろうか、なんとなくそんな気がしている。

アルセストのように、あるいはカントのように、道徳というものを、行動を律する完全無欠な規範として捉えると、どうしても人は滑稽を通り越してグロテスクに傾く。エティックがエステティックでなくなる瞬間のことを、謹厳すぎる行為が精神の美容術でなくなる瞬間のことを、彼らはどのように考えていたのだろうか。