日夏訳「スフィンクス」について


だいぶ前にある人と共同で日夏の「スフィンクス」(ワイルドの長詩)を改訳しようと試みたことがある。その企画は私のほうで嫌気がさしてしまったのでお流れになったが、どうしてそのとき嫌気がさしたかというと、どんなものであれ個人が一個の作品として提出したものをいじくりまわすことに、何ともいえない不毛なものを感じてしまったから、というのが正直なところだった。

ところで話が前後するが、それではなんで日夏の「スフィンクス」を改訳しようと思い立ったかというと、これがあまりといえばあまりな誤訳の連続で、いくらなんでもそれはないわと溜息の出るような間違いの散見するしろものだったからだ。日夏といえば同じ作者の「サロメ」の、これはまた見事としかいいようのない訳を出している人である。その人が、「スフィンクス」では別人かと思うような杜撰な仕事をしている。これはどういうわけだろう。

それにはいろいろと理由はあるだろうが、けっきょくは訳者が若いころに訳出したまま、加筆訂正することを怠ったのがいちばんの理由だろう。そしてそういう熱意を訳者におこさせなかったというのが、つまりは「スフィンクス」という詩の限界だった、ともいえるのだ。

たしかに見ようによってはこれほどつまらない詩もない。作者はただ韻律の遊びのためだけに、古代エジプトやオリエントの歴史から適当な事蹟を拾いあつめてきて、それを適当に並べているだけだ。作中の、背徳的な性愛に関する記述にはたしかに異様な熱があるけれども、だからといって作品の価値が高まるわけでもなく、むしろそのために作品が表層的に流れてしまっているようにもみえる。骨折って措辞にこだわってみても、その努力に見合うだけの内容がないとすれば、日夏ならずとも放り出してしまうのではないだろうか。

しかし私がこの長詩にこだわるのにはわけがある。ワイルドは「サロメ」を仏文で書いたが、そのとき原稿を見てもらった何人かのフランス作家のうち、とくに世話になった(?)ピエール・ルイスに「サロメ」をささげ、同じく原稿のチェックにあたったマルセル・シュオッブにこの「スフィンクス」をささげてお礼とした。そういうわけで、このふたつの作品は、軽重・出来不出来の違いはあるけれども、ワイルドの「礼」のたまものとして、同列におかれてしかるべきものなのである。

そういうものだから、日夏訳に不満な私は自分で訳してみようと思って、どうせやるからには凝ったものにしてやろうと、文語体で訳しはじめたのだが、これがやればやるほど、凝れば凝るほど、にっちもさっちも行かなくなってきた。ソネットくらいなら何とかごまかせるが、これは長詩である。いけどもいけども先が見えず、できあがった分を読み直すと自分でも胸がむかつくようなぶざまなものになっている。

ほとほと手をやいて、ふと日夏の訳にかえってみると、やはり詩人の手になるものだけあって、誤訳さえ気にしなければなかなかの名調子である。彼のものとしては凝りすぎていないのも好感がもてる。原文の流れるような調子とは別物にしあがっているが、ここにはまぎれもない日夏=ワイルドの連繋がみてとれる。

そこで、いったんは中止した日夏訳の再検討にとりかかった。明らかな間違いを正しつつ(といいながら、新たな間違いを加えていないことを祈るが)、なるべく訳文の調子を損なわないように気をつけながら、全体を更新する試みである。自分ならこうは訳さない、と思うところも、間違っていないかぎりは原文のままにした。だから、ちょっと見たかぎりではどこが訂正の対象になっているのかわからないと思う。こういう場合は、もちろんわからないほうがいいのである。

こちらにその訳文を出したので、暇な人は(なにぶん長くて退屈な詩なので)読んでみてください。

最後に、ひとつ不明な箇所を書いておくので、もしどなたか分るかたがあったら、教えていただければ幸いです。

全体のまんなかあたり、アンモン神の描写のところに、こんな詩句がある。


His face was as the must that lies
Upon a vat of new-made wine:
The seas could not insapphirine
The perfect azure of his eyes.


この insapphirine がどういう意味なのか、サファイアのような青にするのか、その逆なのかが分らない。私は前者の解釈に従ってみた。日夏は後者の解釈で訳している。