極私的平井呈一論


先日Twitter平井呈一の話題が出て、意外にも若い人にまでこの人の影響が及んでいるらしいことを知った。ネットで見てもおおむね好意的な記事がめだつ。私も「うん、平井呈一いいね」のひとことですませたいところなのだが、それではおもしろくない?ので、あえてアンチの仮面をかぶってちょっと話をしてみようと思う。

平井呈一についてはこの日記でも何度か言及したおぼえがある。はっきり覚えているのは彼の創作「真夜中の檻」の感想を書いたこと。この小説はすばらしくて、怪談好きの人にはぜひとも読んでほしいのだが、同時に怪談好きの人におすすめできないのが創元推理文庫で出た「怪奇小説傑作集・1」だといったら意外に思われるだろうか。

なぜかといえば、端的に「こわくない」からである。ゴシック的な風土に不可欠の要素として「暗さ」や「非人間性」や「秘教化」などがあげられると思うが、平井呈一の訳文から一貫して感じられるのはそれらの正反対、すなわち「洒脱さ」「人間味」「脱秘教化」といった要素なのである。あえてかんぐれば、彼は怪奇小説のまわりに垂れ込めた閉鎖的なマニア性を嫌って、これを万人受けのする親しみやすいものにしようと努めた結果、ああいった下町情緒の纏綿する訳文を生み出すにいたったのではないか、という気がする。それにしても、たとえ出発点が「怪奇小説はこわくない(近づきやすい、の意味で)」だったとしても、その帰結が「こわくない怪奇小説」になってしまったら、これはこれで困るのではないか。

この短篇集や、ストーカーの「ドラキュラ」などは、私の趣味からいえば平井呈一のよくない面が全開になっているように思う。もっとも、そのいっぽうではハーンやサッカレのすばらしい訳をものしているわけだから、いちがいに貶すつもりはない。私だってほんとはこのおじさんが嫌いなわけではない。むしろ好きなのだが、それだけにある種のものについては点が辛くなってしまうのだ。

「オトラント城」をなかなか読む気になれないのも、以上述べたような懸念があるからで、まずは原文を見てから……と思いながらすでに数年がすぎている。そうだ、これを読むのを忘れていた! いまの課題がひとまず片づいたら「オトラント城」を読もう。遅くとも、お盆の季節までには必ず……