外国語の本と長くつきあっていく方法ひとつ


英語の勉強を中学高校の6年間だけでやめてしまう人が多いようだが、それはちょっともったいない。なぜなら、英語を知っているだけで読める本の幅がかなり広くなるから。邦訳がない、あるいは品切だといって嘆く人をよく見かけるが、英語ができれば原書なり英訳なりにつくことができるのだから、訳書が手に入るまでじっと我慢している必要はないのである。もちろん、長いあいだ探していた訳書がやっと手に入ったときの喜びは何にも替えがたいものがあるだろうし、そういうストイックな楽しみをいちがいに否定するつもりははないが、しかしもしかしたら一生手に入らないかもしれないものを、ただ待っているだけというのもつまらないのではないか。

ところで、中学高校の6年間の英語学習で英語が読めるようになるか、といえばかなり怪しいのである。少なくとも日本語を読むようにすらすらとは行かないのが常だ。たいていの人は英語の本を買いこんできて、さあ読むぞと気合を入れたのもつかのま、何ページか進んだあたりでだんだん読む気がそがれてきて、まあつづきはあとで読もう、と読みさしのまま本を置く。その時点でその本はおそらく二度とは開かれない。いつか読む、というのはこの場合二度と読まないということと同義なのだ。

それはなぜかといえば、たいていの人は(本好きであるかぎり)、英語の本に飽いたら「気分転換」と称して日本語の本を読んでしまうからである。そしてその日本語のあまりの心地よさのため、英語がますます面倒なものに感じられてしまうのだ。英語を読んでいるときはまるで近眼になったかのようにぼんやり見えていた世界が、日本語に戻ることでにわかにはっきりと目に映ってくる。細部までくっきりと見えるようになる。そうなれば、もう二度とあの霞のかかったような英語の世界に戻りたくなくなるのは理の当然というものだろう。

ところで、本を読むというのは自分で考える代りに他人に考えてもらうというかなり怠惰な楽しみなのだから、読むという行為にはなるべく負担がかからなほうがいいい。少なくとも「読む」ことにしゃかりきになるのは望ましくない。文字が自然に目に飛び込んできて音声に変換されるのが理想的な状態だ。つまり「読む」ことにおいてがんばってはいけないのである。ではどうやれば「がんばらずに」英語が読める、もっと正確にいえば 読 み 続 け る ことができるようになるのだろうか。

そこで私が提案したいのが、英語以外にいくつか外国語をやってみる、ということだ。英語だけでも大変なのに、ほかの外国語になんか手がまわるはずがない、と思われるかもしれない。たしかに負担は大きいものになるだろう。しかしその負担は「外国語を学習する負担」であって、「外国語で本を読む負担」ではない。ここでわれわれに課せられるのは「読む負担」ではなく「学習する負担」なのである。そして学習には負担がつきものである。「読む負担」を軽減するためには、どこかで別の負担を背負いこまねばならない。それさえできないというのなら、もう初めから諦めてしまうよりほかにないだろう。

さて、そうやってとりあえず英語以外に二ヶ国語をものにしたとする。この二ヶ国語は別に何でもいいので、自分の関心にあったものを選べばいい。ふつうよく英仏独といわれるが、たしかにフランス語は語彙の点で英語と共通するものが多いし、ドイツ語は文法その他において英語の姉妹語だから、学習には便利かもしれない。

三ヶ国語にある程度親しむことができるようになれば、英語の本を読んでいやになったからといって、ただちに日本語の本に戻らなくてもいいようになる。第二外国語のものを手にとればいいのだから。しかしこれもしばらく読んでいるとわからないところがいっぱい出てくるだろう。当然読むのがおっくうになってくる。そうなればいよいよ第三外国語の出番だ。これでしばらく読んでいるうちに、やはりわからなくなったりめんどくさくなったりしてくる。それは不完全な外国語で読んでいるのだから当然のことだ。

そのとき、もう一度最初の英語に戻って読んでみると、ふしぎなことに英語がものすごく読みやすく感じられる。英語とはこれほどまでに明晰な言語であったのか、と目からウロコが落ちたような気持になること請け合いである。もちろんこれは一種の錯覚なので、苦手なものからより少なく苦手なものに移行したときに感じられる抵抗感の減少にすぎないのだが、しかし現実に負担の軽減が感じられるならば、当初の目的は達したとみて差し支えないのではないか。

私はこれを三圃式読書法と名づけたいのだが、はたして賛同してくれる人はいるだろうか。