アマチュア翻訳のすすめ

Cacoethes scribendiという言葉があって、「書きたがる悪癖」と訳される。物書きといわれる人々はまずこの性癖があって、それに促されて仕事をしているように見えるのだが、しかしたんにカコエテス・スクリベンディだけではおそらく不十分で、もうひとつ、cacoethes loquendiを備えていなければならない。こっちは「話したがる悪癖」とでもいうべきもので、とにかく何でもいいから相手に伝えたい、心のたけを語りたい、という欲求のことだ。このふたつが相俟ってようやく何かを書いて人々に伝える商売がなりたつ。

しかし何かを書くのはプロだけではなく、アマチュアもネットその他でいろいろ書いている。彼らを動かしているのも上にあげたふたつの性癖なのだが、プロと違ってアマチュアにはそれほど語るべき内実があるわけではない。語るべき内実がない状態、つまりカコエテス・ロクエンディを欠いた状態で、なおカコエテス・スクリベンディだけが発動しているとき、人は葛藤におちいる。「書く事は何もない。だのに私は書いていたい」(山川弥千枝)というのがその嘆きだ。

そういうときはどうすればいいか。それは簡単なことなので、人の書いたものを訳せばいいのである。テクストはいたるところにある。ネットを探せば詩やエッセイは無尽蔵に出てくる。そういうのを自分の言葉になおして書き直せばいいのだ。キケロいわく、「本を書くことなどなんでもない。ギリシャ語の本を横においてそれを(ラテン語に)訳せばいい」と。これをわれわれの場合にあてはめると、「文を書くことはなんでもない、横のものを縦にすればいいだけだ」となる。

ところで、いつか前にも書いたが、理想の翻訳者とは何かといえば、それはまったき透明人間のことなのである。原著に何も足さず、なにも引かず、目をこらせば原文が透けて見えるような訳文、それでいて原著者の意図はもとより、その肌ざわりや息づかいまで伝えることができるのが理想だが、じっさいにはなかなかそうはいかない。それどころか、原著はあくまでもプレテクストすなわち先行テクストであって、たんに自己の表現を盛りこむ素材にすぎないと考えている人々もいる。そういう人々にあっては、原文の改竄など朝飯前のことで、むしろいかにして自己(訳者)のフィールドに原文を持ちこむか、それこそが訳者の関心の的になっている。私はこういうタイプの翻訳者をあまり好かないが、こと文学作品にかぎってはこういう行きかたが功を奏する場合もあるから、いちがいに貶すつもりはない。

ここで少し脱線するが、海外では翻訳者というのはおおむね黒子あつかいで、表紙には名前さえ書かれていないことが多い。つまりだれが訳したかなどということはあまり重要視されていないのだ。それにくらべて日本では翻訳者の名前が表紙に書かれないことはまずないし、翻訳家というのがけっこうリスペクトの対象になったりもしている。これは明治以来、日本では翻訳者=西洋文化の紹介者という等式が成り立っていて、各分野の先駆者を兼ねていたことにも関係すると思うが、よくよく考えてみれば変な慣習ではある。

というわけで、プロ、アマは問わず、何かを書きたいが書くことがない人は翻訳をすることをお勧めしたい。はじめは億劫かもしれないが、やっているうちにだんだんコツがわかってくるので、とりあえず始めてみてはどうだろう。誤訳をするのが恥ずかしい、ですって? だいじょうぶ、プロの訳した本、書店の棚に堂々と並んでいる本だって誤訳はいっぱいある。そんなことに拘泥していては先へ進むことはできない。

ところで、書くということは伝えるということと不可分だから、書いた以上はそれをだれかに伝えるのが自然であり、目的にもかなっているわけだ。さいわいいまではブログというものがあって、これを使えばだれでも書いたものを発表できる。もちろん発表したからといってだれかに読んでもらえる保証があるわけではないが、たとえ架空の読者であっても、読み手をまったく想定しないよりはましだ。それに、頻繁に更新していればそのうち検索エンジンにひっかかるようになるから、だれの目にもとまらないという事態のほうがむしろ考えにくい。

ただ、私がネットで探し当てたアマチュアの翻訳は、残念ながら、あるいは当然のことながら、プロのクォリティには遠く及ばないのがほとんどだ。現状としては敢闘賞どまりがせいぜいのところなのである。それはまあ仕方がない。アマのくせにプロの領域をおびやかすような仕事ができるなら、いっそプロになってしまえばいいのである。ここでも住み分けは必然的であり、アマチュアの領域はプロとは別のところにある。

それはどんな領域かといえば、プロにはぜったいにできない、あるいはできてもしないような翻訳、純然たる「遊び」としての翻訳、一般的には無意味にうつるかもしれないが、個人的には自由な精神の発露であるところの翻訳、そういったものの領域のことだ。例にあげては失礼にあたるかもしれないが、私はその見本をこちらに見出す→ハワード・フィリップス・ラヴクラフト「アウトサイダー」 (全) - SerpentiNagaの蛇行記録

ここに見られる訳者の努力がそれに見合った成果をともなっているかどうか、私にはよく分らない。というのも、この場合ラヴクラフトハルヒとの双方にある程度の理解がなければその真価を評定することはできないから。それにこういう試みにおいては、双方のファンからそっぽを向かれる可能性もないわけではない。しかしこういう異種交配的な試みがアマチュアにしかできないtour de forceであり、またそこにおいてこそアマチュアの強みが最大限に発揮されるであろうことはなんとなく了解できる。

これに影響されて、私も詩の訳をふたつ作ってみた。つまらないものだが、よければご覧ください。