文芸ガーリッシュとは何か


千野帽子さんの宣言にいわく、文芸ガーリッシュとは、「志は高く、心は狭い小娘のための、読書のスタイル」である、と*1

しかしこれだけでは何のことかよく分らない。ある種の文学少女の本の読み方のことなのか、と思ってしまってもおかしくない。さらに帽子さんの意見を聞いてみよう。

「文学は効き目の遅い薬」

薬とはもちろん毒をも含む。そして文学を遅効性の毒薬になぞらえるのは私の経験からも事実に近いと思う。しかし、そういう怖ろしいものを小娘にすすめるというのはどうなのか。遅効性の毒の怖ろしいところは、中毒したことがずっと後になってからしか分らないことにある。そうなったとき、はたして著者は責任をとれるのだろうか。私ならこわくてとても「どくいり、きけん」な本を小娘にすすめるなんてことはできやしない。

しかし著者はそんな私の心配をあざ笑うかのようにこういう、「そのとき、あなたが本を選んだのではありません。本があなたを選んだのです。その本が、なぜあなたを選んだのかって? スヰートな「蜜」と、致死量の「毒」とを、あなたに届けるため」と。

軽妙なレトリックだが、ここには何重もの罠が仕掛けられている。はたして小娘はその罠に気づくだろうか。そして傷を負うことなくちゃんともとの家に帰れるだろうか。ここでも私の心配の種はふえるばかり。

さて、著者が小娘にすすめるのは、「赤毛のアン」や「若草物語」のような、いわゆる少女小説ではなくて、「女の子なるもの」を存在論的に追いつめていくような、「大人向けの小説」、つまりそこに描き出された少女像のうちに、読み手の小娘がみずからの姿を投影して、共感したり反撥したりすることができるような、そういった小説なのである。

それを読む前と読んだ後とでは、おおげさにいえば自分が変ってしまうような本、少なくとも読みようによってはそれが可能であるような本、そういった本をこれから紹介していく、という著者の宣言は、たしかに魅惑的なものだし、そういう作品でなければあえて紹介する必要もなかっただろう。このあたり、私にはとても説得的なのだが、しかしそのことと「文芸ガーリッシュ」という標語とはどうつながるのか。

さらに著者の言葉を聞こう。

「文芸ガーリッシュとは、読みのスタイルです。誇り高く、志も高く、しかし心は狭い。おもしろいものは、天から降ってくるのを待つのではない。自分で獲りに行く。ひょっとすると、こう書いている自分にも実現不可能かもしれない読みのスタイル。それを文芸ガーリッシュと呼びたくなった。そしてそう命名してしまったのです」

そして、本書には少女を主人公にした作品が多く選ばれているが、しかし文芸ガーリッシュがジャンルではなくスタイルだとすると、主人公の性や年齢などは、ある意味どうでもいいのだ、ともいっている。

いや、それどころではない。巷で「少女小説」というパッケージングのもとで売られているような作品には、じつのところ「ガーリッシュな読み」の対象にはなりにくいのだという。なぜか。それはガーリッシュという「読み」が、与えられたものをパッケージどおりに鵜呑みにしない、という姿勢に裏打ちされているからだ。つまりいわゆる少女小説から少女小説という枠組みをはずす、あるいは少女小説ではないものに少女小説という相を与える、そういった読み方が「文芸ガーリッシュ」である、と著者はいうのだ*2

ここで著者は少女小説の一種の脱構築をやっているわけで、観念的にはおもしろい試みだし、これには私も全面的に同意したいが、はたしてこれが現実の「小娘」である彼女(たち)に通じるだろうか? 小娘とはそういう観念的な操作をいちばん嫌がる存在ではないのか? という疑問も浮んでくる。

ここでちょっと脱線すると、現実の少女というのは自分たちの少女性に気がついていない。私も少年だったころには、自分が少年だということなどほとんど意識したことがなかった。もはやそうではなくなったとき、はじめて少年性や少女性が対象として意識されるのだ。それは当り前のことなので、どんなことでも客観化するには対象とある程度の距離をおく必要がある。

そこで翻って考えてみると、「ガーリッシュな読み」を必要としているのは現実の小娘ではなく、もはや小娘ではなくなった人々(つまりおばさん)や、初めから小娘ではありえない人々(つまり男性)なのではないか。そして帽子さんの本そのものが、小娘にあてた手紙の体裁をとりながらも、そのほんとうの名宛人は小娘ではなくて「おじさん、おばさん」なのではないか。

そのように考えてくると、「書店の棚におけるレディースとメンズ」にこだわったり、「いまどきの大人は文学を読まない」と嘆いたりする著者の気持がわかるような気がする。だってそうでしょう、これらはどう考えても小娘相手にするような話題ではない。おもしろい娯楽があふれかえっている現在、「それでも文学書を手放せない、幼稚で青臭くて時代遅れで、ひとことで言ってかっこ悪い私たちは、文学が存在してくれてhappyでしょ?」という著者の目は、たしかに世の文学中年の方向を向いているように思われる。

著者は最後のほうの「感動に共感は必須ではない」というエッセイで、ついにこのように書く、「私が『文芸ガーリッシュ』を連載したのは、小娘を理解したからではありません。……小娘に共感しからでもありません。……当然ながら代弁などできるわけがない。……たんに、ここに登場する小娘のみなさんが、私にとって、「厄介で面倒臭くて興味深い、魅力的な他人」だからなのです」と。

ここにいたると、もう文芸ガーリッシュなるものが「小娘」向けでないばかりか、かなり特殊な、それなりに読書遍歴を重ねてきた大人の読み手に「読み」の再考をせまるもののように見えてきてしまう。それは、前にも書いたように、少女小説というイデアを軸にした脱構築の試みであり、見たことのないものを見慣れたものに、また見慣れたものを見たことのないものに感じるための方法なのだ。

こういう著者の姿勢は、男性の私には好ましいものに思えるけれども、はたして女性(とくにフェミニストといわれる人々)にはどう映るのか、ちょっと興味がある。

前に書いた記事の追記のつもりで書きだしたが、ちょっと長くなってしまったので、これだけでひとつエントリーを起こすことにした。

*1:引用はすべて『世界小娘文学全集』(河出書房新社)より

*2:はっきりそう書かれているわけではないが、そう受け取るよりほかないだろう