世界を救うための一案


結婚する理由として「親のため」「老後のため」があがっているのを見かけた。「親のため」はまあ納得できるとして、「老後のため」というのはどうだろうか。結婚したからといって安定した老後を送れる保障は何もないような気がするのだが。

結婚のことはともかくとして、この「老後のため」という理由が、あらゆる意味で「いま」を生きるための枷になっていることは、ちょっと考えればわかることだ。悲惨な老年がこのうえなく悲惨であることは確かだが、それを避けるために現在を犠牲にすることは、つまるところいまの生活のすべてを未来への投資として位置づけてしまうことになる。これが行き過ぎると、まるで安定した老後を迎えることが人生の価値のすべてであるかのような錯覚におちいることになる。人生とは本来そういうものではない。

このやっかいきわまる「老年」、諸悪の根源といってもいい「老年」をどう扱えばいいか。

そこで根本的な処置として提案したいのが、人生から老年そのものを除去してしまうというやり方だ。つまり、ある年齢に達した老人は、特別な理由*1のないかぎり、安楽死を義務づけられる。ある年齢というのは、現状ではだいたい60歳くらいが妥当だろう。人生60年。泣いても笑ってもこれ以上は生きられない。したがって、人生というのはこの限られた60年をいかに過ごすかということに集約される。

考えてみれば、寿命が人によってまちまちなのは不平等の最たるものではないだろうか。事故や病気や自殺を別としても、たんに個人的資質から、80歳まで生きる人がいるかと思えば50歳で死んでしまう人もいる。これがどれほどの不平等であるかは論をまたないだろう。各自に与えられた60年の寿命というリミットはこの不平等をかなりの程度まで緩和する。

かくして老後を心配しなくてもよくなった(心配するにも老後そのものがないのだから)人類にはどんな生活が展けてくるだろうか。あくまで仮定の話にすぎないけれども、エネルギーを現在に集中させることによって、おのおのが「生き生きした現在」をその手につかむことができるようになるのではないか。それに経済的、政治的な面でも益こそあれ、害になる要素はほとんどないのではないか。

唯一不満が出るとすれば、それは60歳を越えてなおかつ健康でいられる心身の持主が60歳で死ななければならない不条理(!)に由来するものだろうが、もちろんこの不満は却下される。というのも、それはじっさいに60歳を越えてみないとわからないことだから。そしてこの社会においては60歳以上の人間は存在しないのだから。

というわけで、人類が未来に生き延びるためにはこの方法をとるしかないと思う。

*1:たとえばその人でないとできないような仕事を継続的にやっているような場合