岡田暁生「音楽の聴き方」


岡田氏の中公新書の三冊目だが、けっきょくのところ題名につられて買った人には多大の失望を与えるような本だ。それにしても、いまどき客観的な「音楽の聴き方」を書物に求める人がいるだろうか。私がこの本に期待したのも、客観的かつ一般的な「聴き方」ではなく、著者の個人史とからみあったところの、思いきりバイアスのかかった「聴き方」だったのだが、どうも著者はみずからが「学者」であることを意識するあまり(?)、そういう個人的な思い入れたっぷりの「聴き方」を書くことは断念してしまったらしい。しかし、私は岡田氏ほどの人ならば、みずからの個人史を語ってもらったほうが、ずっと実践的な「音楽の聴き方」になったと思うのだが。

音楽の聴き方も、本の読み方と同じようなもので、真に自分のものにするには他の人から「盗む」よりほかはない。そう、教えてもらう前に盗む。盗む先はどこからでもかまわない。雑誌でも、知人でも、ネットでも、とにかく気になる人が気になることを書いていたら、そこから盗む。そしてそれから得た知識なり見解なりを自分の文脈に置き換えて配置する。それ以外に自分の地平をひろげる方法はないと思うのである。

著者によれば、音楽の楽しみ方には「聴く」「演奏する」「語る」の三つがあるという。この三つはそれぞれ独自の領域をもちながら互いに連関しあって、ひとつの「体験」をかたちづくっている。ここから「聴き方」だけを抽出するのは無意味でもあり、また不可能でもある。だから本書ではこの三つの要素をなるべく一体にするような方向で話が進められている。この方向に私はひとつの名前を与えたい。それは「音楽を「所有」すること」である、と。

しかし、真に音楽を「所有」することは、おそらくなんぴとにも不可能である。たとえいかなる方法を講じたとしても、そのために聴覚のみならずあらゆる感覚を総動員したとしても、ついに「音楽」そのものに到達することはできない。この、どこまでいっても縮まらない「距離」に自覚的であることが、逆説的にその人の音楽体験を豊かにする契機になっている。本書が手をかえ品をかえ力説しているのも、おそらくそのことではないか。

「距離」がないところに「愛」はない。「愛」の発動するかぎりにおいてこの「距離」を埋めていく作業、それはいたるところで偽りの「達成」と、現実としての「挫折」とを経験することだろうが、その作業の積み重ねこそが「音楽の聴き方」の根本にあるのではないか、と思った。