森鴎外「即興詩人」(上)


とりあえず上巻読了(岩波文庫)。明治の翻訳文学の傑作とされているもので、いずれ一度は、と思っていたが、ようやくいまごろになって読んだ。

鴎外は私にとっては無敵の人である。ボードレールがゴーチエについていったimpeccableという形容は、ゴーチエよりも鴎外にはるかにふさわしい。もし彼が語格文法のうえで間違いを犯したとしても、鴎外の間違いならばそれだけで正当化される価値がある、とまで思ってしまう。こんな人間がかつて存在したとは信じがたいくらいだ。その彼が掌中の珠のように愛でいつくしみ、十年の歳月を費やして翻訳したのがこの本。私ならずとも身構えてしまうのがふつうだろう。そんなわけで読むのがあとまわしになった。

さてこの本だが、どう見ても翻訳ではない。少なくともふつうの翻訳ではない。というのは、この本のどこをさがしてもアンデルセンの姿は影も形もないからだ。そのかわりに鴎外森林太郎の巨大な影がいたるところにさしている。要するに鴎外著にしかみえないわけで、いわゆるドイツ三部作を伝奇仕立てにしたらこうもなろうかというような作品。

ただ難をいえば、美文ではあるけれども、そこにポエジーを見出そうとしたら無駄骨に終わる。鴎外にたったひとつ欠けているものがあるとすれば、それはポエジーであって、もともとポエジーがないのだから、いくら筆を舞わせてもそこには「詩」は生まれない。といっても、彼にはその欠点を補ってあまりある散文精神がある。それが最高度に発揮された「諸国物語」こそが彼の翻訳の真骨頂を示すものだろう。

その証拠に、「即興詩人」系統の翻訳には後継者がほとんどいないが、「諸国物語」系統の翻訳には後継者が無数にある。そればかりか、「創作」という面でも「諸国物語」系のものはかなりの数にのぼる。いわゆる「コント」形式のものは、日本ではほとんど「諸国物語」から派生したといってもいい。

それだけに、この「即興詩人」は一種の珍品として、芸術品として、異国情緒の鏡として、独自の価値をもっている。ここに描き出されたイタリアは、明治の日本という土壌にぽっかりと浮び出たファタ・モルガーナにみえる。