内村鑑三「余は如何にして基督信徒となりし乎」
著者が英語で書いたエッセイを鈴木俊郎が訳したもの(岩波文庫、改訳版)。題名はものものしいが、内容はきわめて平明な文で書かれている。これは著者なりの「或る魂の発展」であって、じっさいこれを読んだストリンドベリは「青い本」に感想を書きとめているくらいだ。
ヨナタン・Xと名乗る著者は、明治10年、16歳のとき、北海道のカレッジでなかば強制的にキリスト教に改宗させられる。しかしきっかけは強制だったとしても、そのうち本気で自分からのめりこむようになって、ついにはプロテスタントの本場であるアメリカに留学するまでになる。そこで数年間いろんな経験をして、帰国するまでのことが本書には書かれている。
この本を読めば、だれでも内村鑑三を尊敬しないまでも、愛するようになるのは確かだ。彼はどうも人から敬われるよりも愛されるような人柄だったらしい。稚気と衒気との奇妙な混交。しかし彼は武士の子らしく、その精神はどこまでも愛国的である。彼はアメリカでキリスト教を学んでも、アメリカ人になりたいなどとはこれっぽっちも思っていない。彼の関心はもっぱらキリスト教の精髄を身につけることと、それを日本の風土に移植することに向けられている。身も心もフランス人になりたがった森有正とはえらい違いだが、そこにはやはり時代の制約がはたらいている。内村鑑三の業績を考えるとき、日本の国そのものが啓蒙時代にあったことを無視してはならないだろう。
本書の背景になっているプロテスタントおよびその分派の信仰については、正直いってよくわからなかった。かつて読んだカトリックの人々の本、たとえばイグナチオとかサビエルとか聖女テレサとかの本と比べてみても、基本的なところではおんなじに見える。ある人は内村の信仰をさして「個人的キリスト教」と呼ぶ。そしてその代表的人物としてキルケゴールをあげる。個人レベルにおいては、カトリックとプロテスタントとのあいだにある溝はすでに乗り越えられているのだろうか。
私はキリスト教徒ではないが、もし「個人的」ということを拡大解釈していいのなら、自分もまた「個人的キリスト教徒」の端くれではないか、と思った。
いずれにしてもこの本、全体のおおまかな流れとはべつに、随所に出る片言隻語が読み手の心にいつまでも残るような本だ。そういうところにいちばん内村鑑三らしさを感じる。