40歳のオタクについて


百貨店の商品券をもらったので、それを換金するために金券ショップへ行くと先客がいて、なにやら記念切手らしきものを買っている。それを見ていて、そうだ、自分の子供のころは切手集めという趣味があったっけ、そういえば古銭集めというのもあったなあ、などと考えていた。

切手、古銭、マッチのラベル、洋酒、あるいは軍事関係のプラモデル、動物の剥製、そんなものを集めている大人を見ながら、子供の私はなにを感じていたのだろうか。

私が何を感じていたかはともかくとして、コレクターといわれるような人は昔からいた。いまでいえばオタクっぽい人々。しかし昔のコレクターといまのオタクとでは何かが決定的にちがっている。

私はいまどきの若者のオタク趣味については関心も同情ももっていない。それはオタクどもの向かう興味の対象が、私にはさっぱりおもしろいと思われないから。

この前、はてなダイアリーに「40歳のオタク」についての記事があった。それを読みながら思ったのは、40歳といえばもう10歳くらいの子供の親の世代にあたるということ。たとえそのオタクに子供がいないとしても、友人の子供が彼の家へ遊びにやってくる可能性がないわけではないこと、など。

私が子供のとき、父の友人の家に遊びにいったとして、そこに萌え絵やらフィギュアやらがいっぱいあったらどう思うだろうか。

この設問はもちろんアナクロニズムを含んでいるので、厳密には成り立たない。しかし、いまのオタク趣味が40歳の男子の趣味としてあまり適当なものではないということだけはいえるのではないか。

私の思うに、オタク趣味が文化として成熟しないのは、それが構造的に「出口なし」なのにもかかわらず、ひとはいつかそこから出て行かなければならないことにある。これはあらゆるサブカルチャー一般についていえることかもしれないが。

「廃残の男たち、わが一党、ああ、同属の脳髄よ。私は毎晩あなたがたに、荘重な訣別のことばを告げる。神の恐るべき爪がその身の上に襲いかかる、40歳のオタクたちよ、あなたがたは明日、どこにいるのだろうか?」


(追記、1/26)
上の一文、読み返してみると、なんだか一方的におっさんオタを貶めているようだが、必ずしもそういうわけではない。むしろ自分のうちなる「オタク的なるもの」への反省の意味をこめて書いてみた。最後のパラグラフ(ボードレール「小さい老婆たち」の改変)を注意深く読んでいただければそのことはわかると思う。