ペイターについて


anatorさんのところ(→http://ameblo.jp/anator/entry-10187598067.html)でペイターが取り上げられていたのでちょっとネットで調べてみたら、ふたつのことに気がついた。ひとつはりっぱな──おそらく──全集が日本で刊行されていること。もうひとつは日本語のウィキペディアにペイターが立項されていないこと。

このちぐはぐな現象をどう考えるべきか。

私はペイターにはあまりなじみがなくて、読んだのは冨山房百科文庫の「ルネサンス」だけ。これは翻訳のせいかどうか、最初に読んだときはひどく無味乾燥な感じがしてとっつきにくい印象だった。しかし何度も繰り返し読むうちに、だんだんそのすごさがわかってきた。いまでは私の大切な本のひとつになっている。

ペイターはこの本のなかでヴィンケルマンについて長々と書いている。そのヴィンケルマンはまたゲーテにも大きな影響をあたえた。彼の「イタリア紀行」には随所にヴィンケルマンの名前が畏敬の念とともに書き記されている。そこで私のなかでゲーテ、ヴィンケルマン、ペイターというひとつの連関ができてしまい、ペイターはそういう系譜の人、つまり王道をゆく人としてつよく印象づけられることになった。

私はありもしないペイターの像を自分の心のなかに描いているのかもしれない。いわば一種のイマジナリー・ポートレイト。これはまたペイターの著作のひとつの名前でもあるのだが(ただし複数形)、これが「想像の肖像」と訳されているのをanatorさんのブログで知った。ほかにもいろんな訳があるらしい(上記のブログ参照)。

しかしどの邦題もなんだかしっくりこない。私は「架空の肖像」が一般的だろうと思っていたが、検索してみるとどうもそうでもないみたいだ。出てくるのはマン・レイの「サド侯爵の架空の肖像」ばかり。……

まあそれはそれとして、家にはペイターの本がもう一冊ある。「享楽主義者メイリアス」がそれだ。戦前の本で原文つきなのはいいが、そのおかげで大部の本になってしまってなかなか読もうという気になれない。付録(?)の「シャグパットの毛剃り」(ジョージ・メレディス)もおもしろそうなんですがね。……