高山宏「メデューサの知」


「アリス狩り」の三冊目(1987年、青土社)。題名の意味するところはよくわからないが、メデューサというよりむしろペルセウスの盾がここでは問題になっているように思われる。ペルセウスの盾はナルシスの(水)鏡に容易に転じるだろう。この本の隠れたテーマはナルシシズムの危険とその惑溺への誘いではないかと思う。

なぜナルシシズムかといえば、この本を読めば、高山氏の自我(エゴ)がそろそろ額縁のなかにおとなしくおさまっていられなくなりつつあることが手に取るようにわかるからだ。高山氏のエゴは膨張し、肥大する。それは具体的には「ぼく、ぼく、ぼく」の連呼にあらわれている。本書はエゴチスト高山宏の誕生の瞬間を告げるものだ。

それは換言すればスタティックな研究者からエキセントリックな芸人になるということでもある。ただし本書ではまだその芸人としての身振りがぎごちなくて、ときとして観客の失笑を買うような場面もある。私がとりわけ「痛い」と思ったのは「Wittgenspiel」と題された一章。「五〇、六〇年代のテクストが、限界と超越の問題をめぐって激しく《ヴィトゲンシュピール》している」とか「インターテクスチュアリティの錯綜からの解放を身振りし、従って贅肉をそがれたアフォリズムのアップ・テンポにぼくらは酔い、<反>形而上学をロックンロールする」とか……

あと、著者の好きないいまわしとして、「そっくり」とか「そっくりそのまま」とかいうのがあるのに気がついた。事象Aが事象Bに「そっくり」あてはまる、といった調子で何度も出てくる。そんなに「そっくり」あてはまるかなあ、とこっちは半信半疑なのだが、高山氏は自信満々である。まあこういう観念連合には蝶番になる概念というかキーワードがあって、著者はこれを「メルクマール」と呼んでいるようだが、そういうのを集めてみれば高山ワールドのすべての扉は「そっくり」開いてしまうのではないか、と思ったりする。

最後に、高山氏が旧著の復刊にあまり積極的でない理由が本書を読んでなんとなく理解できた。というのは、氏にとってすべての問題(プロブレマチックス!)はほぼ60年代(シックスティーズ!)に出つくしていて、高山ワールドもそのころに見取り図ができあがってしまったようなあんばいなのだ。つまり氏がえんえんとやっていることは、その見取り図をもとに作られた高山ワールドの「保守管理」なのである。「保守管理」となれば、つねに最新の状態に保つことが大切なのはいうまでもない。高山氏にとって新しい本を書くということは、とりもなおさず古い本を書きなおすことだ。となると、旧著は不要ではなかろうか。

そういう意味では、高山氏のテキストは一種のパリンプセストだということができる。