ボードレールとメトニミー


先日知人と話をしていたとき、どういう話の流れだったか忘れたが、「老若男女を問わず、世界でいちばん美しいのはイギリス人だ」と放言してしまった。すると知人はたちどころに反論して、いやそれはスペイン人だろう、という。ことにスペイン女の美しさときたら……なんていう。私はスペイン人の男はみんなどろぼうにみえるし、女はみんな売春婦にみえる、とまたしても極端なことをいった。そこからえんえん議論になったのがだが、それはともかくとして、フランス人が外見的に冴えていないということだけは意見が一致した。女はなんとなくくしゃくしゃした顔をしているし、男は背が低くてハゲている、等々。それからフランス文化の話に移って、全体的に平均点は高いが、これという決定打に欠けているのではないか、という話になった。たしかに、十七世紀の古典時代の文物でも他国からつっこみを入れられる余地は多々あるもんなあ、と思っていたら、知人は「しかしフランスには文学がある」といった。フランスがもっとも誇るべきは文学、ひいては言語である、と。

しかしそのフランス文学にしても、私の知っているかぎりでは、平均点は高いけれども決定打に欠けるという点では他の文化とあまり変らないのではないかと思う。フランス文学における最大の古典作家はたぶんラブレーだと思うが、この作家はあまりにフランス文化に密着しているせいで、どうも他国では受け入れがたい存在のようだ。翻訳したらおもしろみが失われる、というのではなかなか国境を越すことはむつかしいだろう。

フランス文学ではむしろ二流、三流以下のものにおもしろいのがある。三流以下のものが主流をなす文学というのも変な話だが、そうなってしまった元凶はおそらくボードレールにある。ひとの心に食いこむには大文学でなくていいんだよ、小さいものでいいんだよ、ただしそこにビザールな味つけを忘れてはいけないよ、ということをボードレールは身をもって示した。その教訓は後続の詩人に受け継がれ、やがて全ヨーロッパへ、さらには東洋(ことに日本)へ広がっていった。十九世紀の後半にボードレールが出てから、フランス文学ははじめてほんとうの意味でインターナショナルになったので、その意味ではフランス人はこの詩人にいくら感謝してもしすぎることはない。

もちろんボードレールが出たのはその前にロマン派の活動があったからで、そのロマン派を準備したのはまたその前の……と順次に過去へと影響史をさかのぼることが可能だが、そのへんのことについてはよく知らないので省略。

いずれにせよ、この「粉々に砕け散ったボードレールの破片たち」がうごめいていた世紀転換期がフランス文学の最後の黄金時代だったのではないかと思う。それは一種のバブルであって、やがて世界大戦が起こるとともにあえなく潰え去ってしまった。

いまでもモンパルナスのボードレールの墓にはいろんな供え物がつねに置かれている。それは名もない人々のこの詩人にささげる無言のオマージュだ。もちろん、供え物を持参していなかったらそのへんにある小石を供えてもいいし、マラルメの「ボードレールの墓」をお経のように唱えてもいいのである。

……というようなことを、知人には語らなかったが心のなかで考えていた。