トマス・ブラウン「医師の宗教そのほか」


ふだんは「英語くらいできるわい!」みたいな顔をしている私だが、じつはそうたいしてできるわけではないのはここをご覧になっている方にはとうにバレているだろう。最近、高山宏の導きで十七世紀のイギリスをちょっとかじってみようと思ってジョン・ダンの詩集をみたら、まったく読めないのに自分でも驚いた。なんということだ、こんな語学力でいっぱし英語ができるような顔をしていたとは! しかし、この「読めない」というのが私にはひどく愉快なのである。理系の人には笑われるだろうが、人文系ではこの「読めない」「わからない」ということが一個の魅力になっていることがある。読めてしまったら、わかってしまったら、かえって魅力は薄れる。「読める」と「読めない」とのあいだの微妙な境界線をうろうろしているのがいちばん楽しいときなのかもしれない。

さて、その英国十七世紀の傑物のなかでも前から気になっていたのがトマス・ブラウン。名前だけは聞いたことがある人も少なくないと思う。というのも、エドガー・ポオの「モルグ街の殺人事件」のエピグラフにブラウンの文が引かれているから。

そういえば、高校のときの英語の教科書にブラウンの"RELIGIO MEDICI"についてなにか書かれていた文があって、先生はこれを「医師の信仰」と訳していた。ラテン語をまるで知らなかったころだから、なんだかカッコいい書名だな、と感心していた。まあ私のブラウンとのつながりといえば長いあいだこの程度のことにとどまっていた。

それが今回急に気まぐれをおこして、ブラウンの主要な著作を集めた選集を買ってみた(オックスフォード大学出版、1964年)。ページを開いてぱらぱら見ていると、たしかにややこしい英文ではあるが、ダンの詩のように五里霧中ということはない。これならなんとかなりそうだ。随所にラテン語がちりばめられているのは当時の流行のようなものだろうか。いまの作家がやると嫌味だが、ブラウンのは古い文だからあまり違和感はない。

マリオ・プラーツによれば、ブラウンが偉いのは「ヒュドリオタフィア」を書いたからでも、「プセウドドキシア・エピデミカ」を書いたからでもなく、ひとえに「レリギオ・メディキ」を書いたから、ということになるらしい。そういわれればますます読みたくなってくる。幸いにして、「レリギオ・メディキ」は長い著作ではない。ページ数にすれば80ページほど。英語のリハビリもかねて、遅くとも来年一月までには読んでしまおうと思っている。

ところで、日本でのブラウンの研究状態はどうなのか、と思ってネットを見ると、松柏社という出版社から「レリギオ・メディキ」と「ヒュドリオタフィア」の翻訳が出ているではないか。これは驚き。わからなければこれでカンニングすることができる。残念ながら現在品切のようだが、図書館では利用可能だと思われるので、機会があれば(つまり原文でにっちもさっちもいかなければ)のぞいてみたい。