宇能鴻一郎頌


私は日本の現代小説が読めない。読めない理由ははっきりしている。それは文体的に堪えがたいものがあるからだ。両村上もダメ、高橋げんちゃんもダメ、島田なんとかもダメ。ダメといえば三島もダメ、高橋和巳もダメ、大江もダメ、要するに戦後作家のほとんどすべてがダメになる。かろうじて読むにたえるのは石川淳くらいだろうか。しかしこの作家は現代作家というには古すぎる。まあ石川淳も後期のはほとんどダメですけどね。

このダメづくしの現代日本文学にあって、しかしながら一人だけどうしても無視できない、いやそれどころか私がほとんど100パーセントに近いリスペクトを払っている人がいる。それが宇能鴻一郎だ。

私の母が若いころに読んで感動したと口癖のようにいっていたのが「鯨神」。母はこれを「げいしん」といっていたが、正しくは「くじらがみ」である。それはともかく、宇能といえば雑誌などで見るポルノ小説しか知らなかった私は、長いことこの作家を軽視していた。そう、「鯨神」をじっさいに読んでみるまでは。

「鯨神」を読んだときの衝撃というのは……

……で、この小説を読んで宇能氏がただものではないと感じた私は、とにかく見つかるかぎり氏の小説を手に入れてみた。そして、驚いたことに、そのほとんどにハズレがない。つまらないものもつまらないなりにおもしろい。ひそかに思うに、失敗作すらも愛することができてこそ、真にその作家の愛読者といえるのではないか。こういうのは気質的な共感ということが大きいだろう。自分の気質にぴったりかなった小説家に出会うのはまれだが、宇能氏は私にとってそのまれな作家に相当する。

もちろん本の趣味は食べ物の趣味と似たところがあって、自分にあうからといって他人にもあうとは限らない。私がここでいくら「宇能鴻一郎は戦後文学にあってもっともすぐれた一人である」と叫んでみても、それなりの実証を出さないとたぶんだれにも相手にしてもらえないだろう。
私も時間があれば本格的な宇能鴻一郎論を書いてみたいけれども、残念ながらそれだけの根気がない。もっとも、よく考えてみれば、宇能氏ほど「研究」なんていう作業にふさわしくない作家もいない。彼の全作品がこぞって「研究」を拒絶しているとはいえないだろうか。彼の作品を前にして、人は魅了されるか、あるいは無視するかのどちらか一方を選ぶしかない。

宇能氏にはおそらく自分の作品を後世に残したいという意思はないと思われる。全集を、いや選集すらも編もうという気持は絶無だろう。彼にとって個々の作品とは一回かぎりの交接のようなものだ。そのときどれだけの高揚感が得られたかが大切なので、発表してある程度流通してしまえば、それは死物と変りなくなる。死物にはふたたび用はない。こういう潔さも彼の魅力のひとつだろう。

以下、ネットで見つけた宇能関連の記事をいくつかあげておく。私のいいたいことの幾分かはこれらの記事が代弁してくれていると思うから。

http://machi.monokatari.jp/a2/item_1568.html
宇能鴻一郎は芥川賞作家
2005-09-29
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/2007/01/post_52.shtml