ディドロ「絵画について」


サロン評で有名なディドロの比較的まとまった絵画論(佐々木健一訳、岩波文庫)。サロン評というのは一種の時評で、この本にもそういった要素は随所に目につく。当時(十八世紀中葉)のフランス画壇のことを知らないと、理解しにくいところも多い。逆にいえば、当時の画壇に興味のある人には絶好の読み物だろう。

私はといえば、当時のパリ画壇にはあまり興味はなく、したがってディドロの本の時評的な面はどうでもいい。私の興味の中心は芸術の本質学、つまり美学にあるのだが、しかしこの本のすみからすみまで探してみても、美学としての体系などは見出せない。ここに語られているのはもっぱらディドロその人の趣味(テイスト)ばかりだ。

もちろん、高雅な趣味をもつ人が美術を語れば、それだけでひとつの美学の観を呈する場合もある。しかし、ディドロにそれを期待するのは見当外れだろう。というのも、ディドロの趣味というのは、印象派を基準にものを考える日本の美術ファンにとってはほとんど常識に属するものばかりだから。当時としては画期的だったかもしれないディドロの趣味も、こんにちの目からみればまっとうすぎて刺激のないものになっている。

物書きとしてのディドロの持ち味とはなんだろうか。たとえば同じ岩波文庫に入っている「ダランベールの夢」そのほかの対話篇。こういった作品に見られる「奇想」こそがディドロの身上ではないだろうか。彼はいわば十八世紀きってのファンテジストであって、そのファンテジーがコント・フィロゾフィックのかたちをとったときにディドロはその真価を発揮する。

そういう観点からすれば、今回読んだ「絵画について」所収の論文のうちでいちばんディドロらしいのは、第一章「デッサンに関するわたしの奇想」だろう。デッサンを論ずるのにいきなり畸形学をもちだしてくるのには驚く。そこから「自然の連鎖」の話にもってゆき、自然に対立するものとして美術学校で教えるマニエール(気取った様式)をあげ、これを徹底的に糾弾する。

ディドロのマニエール嫌いは相当なもので、彼は本論とはべつに「マニエールについて」という補足まで書いている。といっても、彼の立場はこの補論では微妙に揺らいでいるが*1

さて、ディドロの魅力としてもうひとつあげておきたいのは、いかにもフランス人らしいゴーロワ精神だ。この本でそれがよくあらわれている箇所を引用しておく。

「処女マリアが神の母であったのも、その目が美しく、乳房が美しく、お尻が美しいために精霊が彼女にひきつけられたからであり、……」

マグダラのマリアはキリストと浮いた話がいくつかあったものとしよう。カナの婚礼において、ほろ酔い機嫌のキリストが、いささか奔放に、婚礼の娘たちの一人の乳房をまさぐり、……聖ヨハネの尻をまさぐったとしてみよう。……」

宗教的な検閲の厳しかった当時にこんなことを書いてもだいじょうぶなのか、と心配になってくるが、ディドロがこの文章(のみならずそのサロン評)を寄稿していた「文芸通信」という雑誌は、北方(ドイツ)の王侯たちだけを購読者にしたミニコミ誌で、購読者数は多いときで十五名にすぎなかったという。そんなわけで、当時のフランス人はディドロのサロン評をまったく知らず、とうぜん検閲にもひっかからなかったというわけだ。

それにしても、当のフランス人がだれもしらないサロン評にいったいどれだけの存在理由があったのだろうか、と首をひねらざるをえない。

*1:「あしきマニエール」に対して「よきマニエール」を対比的にもちだそうという姿勢がうかがえる