柳瀬尚紀訳「不思議の国のアリス」


ネットでアリスの訳本を検索していたら、この柳瀬訳に「漢字がいっぱい」との評があったので、覗いてみることにしました(ちくま文庫、1987年)。漢字で漢゛字搦め*1なんていかにも柳瀬氏らしいではないか、と思ったので。

全体的によくできていると思いますが、アリスの口調がどうも……基本的には「えっちなのはいけないと思います」みたいな優等生口調で、アリスらしいといえばいえるかもしれません。しかし、「くねくねっと五つ目の曲がりにきたところよね?」と今風にしゃべっているかと思えば、その数行後に「そんなつもりはなくてよ!」と明治時代の女学生みたいな口調になるのがちょっと気になります。

うーん、でもまあいいや、これで「萌える」人もいるんだろうな、と。

言葉遊びの部分はやはり無理があって、うまくいっている場合でもあんまり「おもしろい」という感じはしません。まあそれは仕方のないこと。この本ではかなり原文離れをしているようですが、あんまり離れすぎるとべつな意味でおもしろくなくなるし、その距離の取り方がなかなかむつかしいんですね。

ちなみに、私が一行プロフィールに取り上げたLaughing、Griefは「悲事記や万陽集」となっています。Griefは「悲しみ」という意味だから、古事記を悲事記として、なおかつ魚の「ひじき」にかけて海の縁語にしたのでしょうか。Laughingの訳が「万陽集」となっているのは、その「こころ」がよくわかりませんでした。「万陽」に「笑う」という意味があるのかしらん。

Guinea-pigはどの本にも「モルモット」と訳されているのでしょうか。私の趣味では、ここはそのままギニーピッグとするか*2、あるいはギネヤ豚、ギネヤ虫とでもしたほうがアンキャニーでいいと思います。だれもそんな効果は狙っていない、といわれるかもしれませんが、ここに出てくる動物はみんな現実離れのした、いわば幻獣ばかりだから、ギネヤ虫ギネヤ豚でOKですね。

あと、「解説」と題して楠田枝里子さんが思いきりバカな文章を書いています。ヨーロッパ旅行をした自分を不思議の国に迷いこんだアリスにみたてているのですが、女性のナルシシズムも男性のそれに劣らず鼻持ちならないな、と思いました。

最後にもう一度書いておきますが、この訳本は全体的にはかなりいい線をいっています。ことに最後の、私の感心したお姉さんのエピソードの訳しぶりはすばらしいと思いました。

そうそう、もうひとつ。その前の、めざめたアリスが走り去っていくところですが、この本では「そこでアリスは立ち上がって駆け出した。なんて不思議な夢だったろうと思いながら、懸命に駆けていった」となっています。この「懸命に」がいいなあ、と思って原文を見ると、"So Alice got up and ran off, thinking while she ran, as well she might, what a wonderful dream it had been."となっています。私はas well she mightはthinkingにかかると思っていたのですが、柳瀬訳ではranにかかっているのですね。いずれにせよ、これを「懸命に」と訳したところに、柳瀬氏のアリスに対する愛情が感じられて、私としては満足でした。


(追記、9/13)
アリスの最初期の翻訳のひとつが↓で読めます。
国立国会図書館デジタルコレクション
検索欄に「愛ちゃんの夢物語」と入力してみてください。たまらないほど愛くるしいアリスに出会うことができます。この素朴な味わいは柳瀬氏には出せません(もちろん、現代のアリス訳者のだれにも)。


(追記2、9/14)
本文に「ギネヤ虫でOKですね」などと無責任なことを書きましたが、これは「不可」だと判明しました。というのも、ギネヤ虫はちゃんと実在していて、しかも「特異な」あり方で実在しているからです。どんなあり方か興味のある方は、「メジナ虫」あるいはguinea wormで検索してみてください。

では、なんでギネヤ虫でOKなんて書いたかといえば、虫という字はもともと動物一般をあらわすからで、*3、たとえば大虫といえば大型動物のこと。だから、ギニーピッグをギニア*4の豚みたいな動物と解すれば、ギネヤ虫でいいのではないか、と思った次第です。

ついでに実在するギネヤ虫について少し書いておくと、これはフランス語ではdragonneau(小さい竜)と呼ばれているようです。小さい竜といえばトカゲみたいなものでしょうか。そんなものが体内に寄生するなんて、ちょっとした悪夢ですね。

というわけでびくびくしながら画像検索してみると、ギネヤ虫は長いことは長いけれども(30センチから1メートル)、見たところは細長い紐のようで、竜を思わせるところは少しもありません。

だからといって、気味のわるいことに変りはありませんけれども。

さてギニーピッグに話を戻すと、これは通常モルモットと訳されますが、ちょっと調べてみたところ、モルモットはじつはモルモットではない、ということが判明しました。日本でモルモットと呼ばれているのは正式名称「てんじくねずみ」で、本来のモルモットは、英語でマーモットと呼ばれるところのリス科の小動物だそうです。

詳細については、ウィキペディアの「てんじくねずみ」の項目を参照のこと。

あと、余談ですが、アリスに出てくる白兎(ラビット)と三月兎(ヘア)とは、兎といっても別物です。こういうのは、厳密にいえば訳し分けるべきなんですよね。テニエルの挿絵では、三月兎はじつに凶悪な面がまえに描かれています。英国人にとってラビットとヘアとの違いは自明のもののようですね。

*1:われながら寒けがする!

*2:これはこれで誤解を招きそうですが

*3:フランス語のbete(動物)が虫をあらわすのとあべこべに

*4:これは訛伝らしい