高山宏「アリス狩り」


講談社選書メチエの「奇想天外・英文学講義」をところどころ読みなおしていたらちょっと興味が出てきたので、この高名な英文学者の処女作(だと思う)を読んでみようと思って手に取ったのがこれ(1981年、青土社)。

もうかれこれ二十年以上も前に出た本だが、内容はまったく古びていない。つい最近出たといっても通用しそうな本。が、そんなことよりなにより、この本の記述を衝き動かしている著者のパトスには圧倒される。陳腐な比喩だが、まさにブレーキの壊れたダンプカー。この本の重要な一章にメルヴィルの「白鯨」論があるが、そこで語られる「白い渦巻」のごとく、周囲のあらゆるものを呑み込みながら旋回する精神の運動がここにはあまりに鮮烈だ。うっかり近寄ったら、まちがいなくその渦に巻き込まれるか、あるいは(ウニデス潮流でのように)遠心力で弾き飛ばされるかのどっちかだ。こんな超弩級の本に対して、当時の読書界はどんな迎え方をしたのだろうか。

とはいうものの、正直なところ、心底からおもしろがるには至らなかった。理由のひとつは、この本の大きな柱になっているキャロルやメルヴィルについて、自分があまり関心も同情ももっていないこと。「アリス」は子供のころ絵本で読んだだけだし、「白鯨」も子供のころテレビの映画で見たことがある程度だから話にならない。

まず、「アリス」ってそんなに魅力的なのか、という疑問がある。どうも子供好きの(ただし女子限定)気弱なおじさんが寒いジョークを飛ばしているだけじゃないのか、という偏見が厳然としてある。それにアリスという存在も、たんにゲームを進行させるための契機にすぎず、萌え属性という点ではかなり稀薄なのではないか。

つぎにメルヴィルの「白鯨」。これは前から読んでみたいと思っていて、じっさいに古本屋で文学全集の一冊を買ったこともある。ところが、うちに帰ってその本を見ると、ひどい乱丁本でとても読めたものではなく、そのまま返品してしまった。それが数年前のことで、それっきり熱も冷めてしまった。今回、高山氏の熱論を読んでもあまり感応するところはなかった。まあそんなものか、と思うだけで。

さて、この本を心から楽しむことができなかったもうひとつの理由は、著者のバロック的としかいいようのない文体にある。バロック的といえば聞こえがいいが、じつのところはメチャクチャである。たとえば、高山氏の好きな表現に「あやかしの……」というのがあって、この「あやかし」とはもともと船が沈没するまぎわにあらわれるという怪物のことだから、「白鯨」論の著者にはふさわしいともいえるが、彼にかかると「あやかし」が「あやかしさ」に化けてしまう。こういうのはわざとやっているのか、あるいは無意識なのか、判断に迷うところだ。

著者はこの本と「奇想天外・英文学講義」とのあいだに無数の本を出している。もちろん、それ以後にも。ただ、二十年をへだてたこの二冊の本を読んだかぎりでいえば、内容的には同工異曲で、とくに新しい創見が見られるわけではない。なぜこうも同じようなことを書くのか。その間の事情について、高山氏自身がメルヴィルにことよせてこう書いている。

「何故さらに書く意味があるのか。言語動物としての人間が言語に縋って救われる唯一の方法ありとせば、それは言語(即ち己れの肉体)の限界を知ること、外なるものとの安手ななれあいから間断なく自己を異化し、自己の孤絶を方法的に際立たせる所から開けるのではあるまいか」

外なるものからの異化は、内部における同化ではないだろうか。高山氏は二十年以上もの年月をかけて、ひたすら高山宏に同化すべく努めてきたともいえるだろう。