「般若心経・金剛般若経」


岩波文庫のお経シリーズの一冊(中村元紀野一義訳註)。漢訳とその読み下し文、それにサンスクリットからの翻訳が見開き2ページに収まっていて、非常に読みやすい。註がまた念の入ったもので、これだけまとめて通読してもおもしろい。中村元は名前が売れているので、実体はどんなものかと思っていたが、いやはや、すばらしい仕事ぶりです。ちょっとこの人について仏教を勉強したくなったくらいに。

摩訶般若波羅蜜多とは、「大いなる智恵の完成(への道)」という意味で、この道を通ってひとは阿耨多羅三藐三菩提の境地にいたる。これはブッダの最終到達地点であって、凡人がここに到達するのはまずむり。少なくとも小乗的にはね。ただ、大乗的には不可能ではないのであって、そのための道しるべになるのがこの二つのお経だといえる。

後篇の「金剛般若経」はブッダとその高弟スブーティとの対話。これはむつかしい。はっきりいってよくわからない。ここでの議論を形式的にいうと、「AはAにあらず、またAは非Aにあらず、ゆえにAはAなり」ということになる。こういう論理はヨーロッパにはないと思う。これが通じるなら、あらゆるものがあらゆるものと同じ、ということになってしまう。

好意的に考えれば、通常の論理を超えたところにあるさらに高次元の論理が展開されているのかもしれないが、私の見るところでは、「大いなる智恵の完成」とは、取りもなおさず「動物的に生きる」ということにほかならない。人間から徐々に人間的なもの(代表的なものとして理性)を殺ぎ落としていって、動物的な段階にまで下落(?)したとき、突如として「智恵の完成」が成就するとでも解するほかはない。

これ自体も逆説だが、そもそも理性(言語)を介して反理性に到達できるものだろうか。まあ、それができないから、いろんな種類の荒行があるのだろうけれども。

というわけで、お経を読んでもまったく仏教者にはなれず、ましてや救われることもないのだが、自分のような漢文の愛好家には仏典というのはなんともいえない魅力のあるものだ。変則的としかいいようのない文法、見なれない漢字の頻出、漢字によるサンスクリットの音訳、意訳など、ひとことでいえば翻訳という作業にまつわる変態的な要素がこれでもかと詰め込まれている。

最後に、このお経の眼目だと思われる偈を引用しておく。


一切有為法(一切の有為法は)
如夢幻泡影(夢・幻・泡・影の如く)
如露亦如電(露の如く、また、電の如し)
応作如是観(まさにかくの如き観を作すべし)


サンスクリット原典からの訳)
現象界というものは、
星や、眼の翳、燈し火や、
まぼろしや、露や、水泡(うたかた)や、
夢や、電光や、雲のよう、
そのようなものと、見るがよい。


(追記、8/30)
いくつかメモ書き

本書23ページに「アヌトパンナ・アニルッダ」という言葉が出てきて、どっかで見かけたことがあるなと思っていたら、はてなダイアリーにそういう題のブログがあった。なるほどこういうことか、と納得。ちなみにこの言葉の意味は「生ぜず、滅せず」。般若心経のはじめのほうに出てくる。

祇園精舎の鐘の声、の祇園とは「祇樹給孤独園」を略したものらしい。これの意味は「ジェートリ太子の森にある、孤独な人に食を給する長者(須達、スダッタ)の園」。スダッタ長者がここに土地を買って、シャカのために寺を建てた。この園のある舎衛城とは、コーサラ国のシュラーヴァスティー市のこと。現ゴンダ州のサーヘトマーヘト。

岩波文庫フッサールイデーン」の翻訳には見なれない字の術語がよく出てくる。たとえば「諦視」。これは諦めて見ることでも、見るのを諦めることでもなく、「はっきりと見る」の意。なんでわざわざ「諦」なんていう字を使ったのか、と思っていたが、金剛般若経のはじめのほうに「汝今諦聴」とあって、「諦」に「あきらかに」と読みがふってある。なるほど「諦聴」があるなら「諦視」があってもおかしくない。ちなみに「諦視」の原語はErschauung。独和辞典によれば「見抜く」というほどの意。