鹿島茂「明日は舞踏会」


同じ著者の「馬車が買いたい!」の女性版として、若い女性向きに書かれた(と著者のいう)十九世紀パリ風俗史(中公文庫、2000年、原本は1997年刊)。

骨子となるのはバルザックの「二人の若妻の手記」で、これは修道院から出たばかりの二人の親友が、その後の消息をたがいに報告しあう書簡体の小説らしい。このうちとくにパリの貴族の娘、ルイーズ・ド・ショーリューの手紙をとりあげて、彼女の社交界へのデビューをハイライトにするかたちで、当時のさまざまな資料をつきあわせながら鹿島版「女の一生」としてまとめあげたのがこの本。

とはいっても、女性でもなく、またバルザックにもフロベールにもあまり関心のない私には記述の「枠」の部分はどうでもよくて、興味の対象はもっぱら当時の風俗資料にある。もっとはっきりいえば、当時の女性のモード。たとえば、絵で見てすらややこしいあのドレスはいったいどういう仕掛になっているのか。この疑問は、しかし最後まで疑問のまま残ってしまった。

この本には、当時のモード新聞を飾ったファッション・プレートがたくさん紹介されているが、それらはいわば完成品として外側から眺められたモードであって、その下がどうなっているかはまったく窺い知れない。私が知りたいのは「その下」、つまり下部構造なのだ。

これについては、引用文献にあがっているフィリップ・ペローの「衣服のアルケオロジー」という本が参考になるかもしれない。どこまで私の下世話な関心に応えてくれるかは未知数だが。

それはともかくとして、この本を読むと、当時(第二帝政時代)の貴族趣味というのは、ひとつの病気だったとしか思えない。恋愛すらここでは「見せかけ」にすぎない。見ること、見られること、見せること。支配的なのはこの三つの視覚的機能で、それが全社会を表層的に覆いつくしている。それに交差するのが厳然として存在する身分制度、つまり差別的構造だ。

こういう病んだ社会を真におもしろがるには、当人もやはり病んだ人間でなければならない。鹿島氏はそういう意味では申し分なく「病んだ」人である。しかし、たとえばベンヤミンのような真の(?)「パリ憑き」とくらべると、鹿島氏の病み方にはちょっと不徹底なところがある。

それは、比喩的にいえば、鹿島氏にはベンヤミンにおけるパサージュのようなものがない、ということだ。ベンヤミンのパサージュの構造を私なりに要約すると、全フランスはパリのうちにあり、全パリはパサージュのうちにある、というもの。そういう確固たる「核」の存在が、鹿島氏の本からはうかがえない。もっともそのことが鹿島氏の本を親しみやすいものにしているのかもしれないが、同時に記述が拡散的、平面的になってしまって、読み手に物足りない気持を起こさせるのは否めないと思う。

鹿島氏のパリ本からうける印象。とくに知りたくもないことにはむやみに詳しく、知りたいことだけがすっぽり抜け落ちている。