由良君美「ディアロゴス演戯」

sbiaco2008-06-08



1988年に出た美術エッセイ集。青土社から出た一連の「みみずく」シリーズはこの本をもって終了したようだ。

さて、20年後のいまこの本を読むと、いろんな意味で感慨ぶかいものがある。まず著者がこの本ではあくまで紹介者に徹していて、とくに研究の領域に踏み込んでいないこと。図像学の成果はすでに日本にも定着しつつあったと思われるが、由良君美はそういった精神史的な記述はつとめて避けているようにみえる。次に、ここに紹介された画家たちが、その後の20年間にいい意味でもわるい意味でも消費されつくして、もはや当時のような目新しさはなくなっていること。なによりもインターネットに普及によって、たいていの画家のものはネットで手軽に見られるようになっている。この本にたくさん入っているモノクロの図版は、ちょっとクリックするだけで原色版が見られてしまう。ありがたみがそれだけ減っているともいえるし、由良の蒔いた種が実ったともいえるだろう。

内容はといえば、第一章が「ディアナとエンデュミオン」で、ここではディアナ(アルテミス、ヘカテ)の神話学的な系譜の解明と、ディアナを主題とする絵画とが語られる。神話学的にはディアナは月の三相をあらわしていて、これは処女の三相(純潔、残酷、出産恐怖)にむりやりこじつけることもできるけれども、絵画におけるディアナは要するに画家の「裸婦を描きたい」という欲求に口実をあたえるもので、それはディアナの画題(アクタイオンの覗き見、ディアナ対ウェヌスの対照、ディアナの水浴、ディアナとカリスト、ディアナとエンデュミオン)に端的にあらわれている。

第二章は個々の画家の紹介。扱われているのはロセッティ、フュスリ、ホガース、ターナー、マーチン、ブレイクなど。最後に「イギリス・ロマン派とラファエロ前派」という、1972年にパリで行われた展覧会の紹介文がおかれている。このうちいちばん力が入っていると思われるのがマーチン論で、「失楽園」の挿絵などはすべてが掲載されている。

マーチンの絵はたしかに見るものを瞬時に「崇高」の領域にいざなってくれる。しかしこれはいきなりクライマックスへと人を導くようなもので、一瞬の感興が過ぎ去れば、その後に持続する効果には乏しい。私も今回、ネットでマーチンの絵をいろいろと見ながら、これはすごいと感嘆するとともに、意外に底が浅くて平板な印象ももった。ひとことでいえば、マーチンの絵には知性が感じられない。そのことは、マーチンが決定的な影響を受けたと思われるピラネージと比較するとよくわかる。知性の欠如──それは絵画において決定的なマイナス要因だと思われるが、どうだろうか。

第三章は文学論を中心にした雑文集。やはりこういったもののほうが由良君美には合っている。最後に収められた「リリスの世紀に向かう《宿命の女》」は、ドイツのマン兄弟の作品(兄ハインリヒの「ウンラート教授」と弟トーマスの「小フリーデマン氏」)を紹介しながら、文学にあらわれた「宿命の女」の系譜をたどるもの。しかしここにずらずらと並べられた作品のうちに、ナボコフの「ロリータ」が入っていないのはどういうことだろう。私にはこれこそ20世紀を代表する「宿命の女」小説だと思われるのだが。

なによりもナボコフ自身が、主人公のハンバートについてこう書いている、「彼はイヴと完全に交合することはできたが、彼が愛したのはリリスだった」と。